米沢市の冬の風物詩“上杉雪灯篭まつり”ルーツは戦没者慰霊の思い シリーズ「戦争の語り部たち」
戦後80年のことし、YBCでは毎年夏に特集している「戦争の語り部たち」と題したシリーズを年間を通じて随時、放送し、戦争の記憶や証言などをお伝えしていきます。
今回は、冬の山形県米沢市恒例の「上杉雪灯篭まつり」に注目します。戦没者を慰霊する思いから生まれた祭りのルーツをたどります。
真冬の米沢市が幻想的な灯りに包まれる「上杉雪灯篭まつり」ー。
ことしで48回を数える祭りには、毎年十数万人が訪れます。
来場者「すごかった!きれいだった!」「最近来たことなかったがやっぱり見るとすごくきれいでいいなと」
これは48年前,祭りの前身となった催しの映像です。当時は「雪見の宴」と呼ばれ、小規模な催しでした。
米沢市内の老舗酒蔵の会長・小嶋弥左衛門さん(76)。雪灯篭まつりのルーツを話してくれました。
小嶋弥左衛門さん「父が海軍の予備学生として14期生で学徒出陣した」「米沢から出征して亡くなった方々に故郷の雪の中で慰霊をしようと雪灯篭まつりの中心行事として鎮魂祭を始めた」
小嶋弥左衛門さんの父・弥市郎さん。1923年、米沢市内に生まれ、早稲田大学商学部に進学。その後、在学中に学徒動員によって千葉県内の海軍基地に配属されました。
小嶋弥左衛門さん「海軍14期の予備学生で、いまで言う特攻隊要員。千葉県の舘山基地に所属し訓練を受けていた。3月10日の東京大空襲では炎が見えたと話していた。そのくらい大きな空襲だったんだろう」
日中戦争や太平洋戦争などに出征し、米沢市ではおよそ2600人が命を落としました。
弥市郎さんは、耳の鼓膜に穴が空いていたことから特攻機に乗ることを免れたといいます。
小嶋弥左衛門さん「幸か不幸か鼓膜に小さな穴があって飛行機に乗れなかった。仲間が特攻で死んでいったことへの深い思いがあり、自分たちが国を栄えさせなければいけないというような義務感を持っていたようだ」
終戦後、米沢市に戻った弥市郎さんは、予備学生時代の同期が主催する沖縄県の戦没者慰霊祭にたびたび参加していました。この慰霊祭が33回忌を迎え終了となったことで弥市郎さんや地元の仲間たちは、故郷の雪で灯篭をつくり、戦争で亡くなった人たちを慰霊することを決めたのです。
小嶋弥左衛門さん「33回忌が終わった時点で(慰霊祭が)終了した。それでは忍びないということで父が米沢から出征して亡くなった方々に古里の雪のところで慰霊しようと鎮魂祭を始めた」
当初、雪の壁の中にろうそくを灯す「雪ぼんぼり」づくりで始まった催しは年々規模が大きくなっていきました。
現在は、上杉神社を中心におよそ200基の雪灯篭が並び冬の米沢市の一大イベントに成長しました。
小嶋弥左衛門さん「父が(まつりの翌朝)夜眠れなかったと。理由を聞いたら(兵隊が)行進する足音が聞こえてきて眠れなかったと。亡くなった兵隊さんたちが非常に喜んでおいでになったのかなと話していた」
弥市郎さんは、2005年に82歳でその生涯を終えました。
雪灯篭まつり20周年に作成された記念誌で、自身の思いをこう綴っています。
記念誌の小嶋弥市郎さんの言葉「国のために身命を賭した人々の思いを忘れないように鎮魂祭を催してきました。現代の平和の基となった戦没英霊の御霊に献灯しその灯と雪の美しさに酔いたい。これが上杉雪灯篭まつりを始めた私たちの思いであります」
戦後80年ー。雪灯篭まつりの由来を知る人は少なくなりました。
小嶋弥左衛門さん「いま(祭りに)参列している人はほとんど戦争経験がない方。祭りをきっかけに多少でも戦争に対しての関心を持って知っていただくことが大事なことだと思う」
幻想的な灯りに込められた戦没者の慰霊と平和への思いー。「上杉雪灯篭まつり」は今年も、そしてこれからも、受け継がれていきます。
ことしの上杉雪灯篭まつりは2月8日と9日に開かれる予定です。