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【あの日のスタメン】1944年5月20日は巨人の永久欠番「4」の黒沢俊夫が2つのホームスチールに成功した日

2024年5月20日 6:16
【あの日のスタメン】1944年5月20日は巨人の永久欠番「4」の黒沢俊夫が2つのホームスチールに成功した日
1944年5月20日の巨人スタメン
巨人の永久欠番は「1、3、4、14、16、34」の6つです。

1は“世界のホームラン王”王貞治さん、3は“ミスタージャイアンツ”長嶋茂雄さん、14は“悲運のエース、沢村賞”の沢村栄治さん、16は“打撃の神様”川上哲治さん、34は“400勝投手”の金田正一さんです。

今回のあの日のスタメンでは、その活躍があまり表に出ていない「4」の黒沢俊夫さん(以下、選手)について取り上げたいと思います。

実は80年前のこの日、1944年5月20日は黒沢選手がホームスチールを2回成功させた日です。対戦チームは近畿日本(南海)でした。

44年は太平洋戦争の戦局がより悪化した年で、前年に西鉄と大和が解散。その選手が巨人など他球団に振り分けられることになりました。黒沢選手もその1人。西鉄から近藤貞雄投手、柴田崎雄選手と一緒に巨人に入団しました。いわゆる“外様”の選手だったんです。

巨人に移籍してからの1年目は打率.348の活躍。2年目も105試合に出場し、打率.308、打点60という数字を残しましたが、翌年1947年の出場試合数は26にとどまっていました。その理由は黒沢選手が腸チフスで、6月23日に33歳で急死したためでした。

球団は現役選手としてシーズン中に亡くなった黒沢選手のために7月9日に球団葬を行いました。その功績を長くたたえるために、「4」を永久欠番とすることに決めたということです。