【特集】終戦から来年で80年…"横手空襲"を描き続ける男性の思い 原点にある忘れられない言葉
いまから79年前、1945年8月10日に、現在の横手市中心部で撮影されたとみられる写真。
木造の家屋は、屋根が大きく崩れるなど、原型が分からなくなってしまっています。
この写真は、空襲による被害を収めたもので、文献には、爆弾が店舗兼住宅に直撃し、死傷者が出たとの記録が残されています。
終戦から来年で80年、戦争を直接知る人が年々減る中、知られざる横手空襲を絵で描いて後世に伝えようとしている男性を取材しました。
横手市に住む、東海林良市さん(77)。
小学校の校長などを務めてきましたが、教職を退いてから、本格的に戦争の絵を描き始めました。
「穏やかな優しい絵を描きたいんだけど、ちょっと嫌だけれど、描かないわけにはいかないなと自分に気合をかけながら書いたもので…」
東海林さんが戦争の絵で一番多く描いているのは、自身が生まれ育った横手駅前で終戦直前に起きた、横手空襲に関する絵です。
「落とされた家のものが飛ばされて、畳だったかな、道路の反対側の旅館の屋根まで飛んでいったと話は聞いています」
「こちらは平源(ホテル)の別館が銃撃を受けてかなり傷んだと、ここは瓦葺きでした」
戦場でなくても、日本本土の地方都市が標的となるという戦争の現実。
東海林さんの絵には、逃げ惑う子どもたちが多く描かれています。
「とにかく逃げなきゃいけないと。そして、女中さんと一緒に逃げて行ったと、飛び出したら、電線が垂れ下がっていて、火花が散っていたと。それで怖くて怖くて神社のところまで逃げて行って、夕方近くまでそこにいたと」
終戦間際、1945年の7月と8月の2度あったという横手空襲。
このうち8月の空襲では、横手駅前が爆撃を受けたほか、後三年駅付近にいた客車が狙われ、機関銃による攻撃を受けました。
東海林さん
「大曲に通っていた方で、まだ二十歳前の方だと思いますけれども、この方は即死です。この方の体から出た銃弾の玉はまだ持っているということですけども」
記者
「ご遺族が?」
東海林さん
「ご遺族の方です」
横手の上空に飛来したのは、当時、零戦キラーと言われたアメリカ軍の「グラマンF6F」。
太平洋にある空母から飛び、戦場ではない日本本土を何度も攻撃しました。
当時の法務省がとりまとめた被害報告書を記したのは、秋田に赴任していた検事正です。
「交通機関を狙い各地において旋回行動せるが、のべ数実に110機にして、主として県南部を爆撃機銃掃射を以って攻撃せり」
「6回にわたり空襲警報を発令し各方面に相当動揺を来たしたるものと認められる」
報告書によれば、アメリカ軍の攻撃機は、横手を攻撃したあと、いまのにかほ市金浦にも爆弾を投下するなどして、5人がけがをしたといいます。
絵を描くにあたって、残された文献や写真を参考にしただけではなく、当事者に聞き取りをしてきた東海林さん。
子どもの目線で感じた戦争の恐怖を表現した作品もあります。
東海林さん
「小学校2年生でしたけれども、家も(空襲で)めちゃくちゃに壊れたので、親戚の家に預けられたと。8月14日から5日までの(土崎空襲に向かう)B29を見たわけでないけども、音がすごかったと。それで、額を枕に押し当てて、その怖さに耐えたと。それが非常に長い長い時間だったということでした。それで、8月10日の空襲のことも思い出されたんでしょうし」
これまで描いた戦争に関する絵は、35枚ほど。
原点にあるのは、子どものころ、ある保護者から投げかけられた言葉だといいます。
「あなたたちは平和の子第一号ですよということで」
「それが頭の隅っこにあって」
「勇ましいことが褒めそやされるされるような時代が来れば、それは要注意であると」
「またあってはいけない時代が到来しかねないと」
地元の横手市や秋田市で絵を展示したり、ギャラリートークをしたりするなどして戦争の悲惨さを伝えている東海林さん。
今後も自分のできる範囲で戦争を伝えていきたいと考えています。