「福島は負けねえぞ!」これからもつなぐ俳優・西田敏行さんの思い…福島県
およそ1300本のキャンドルが追悼の光を優しく灯しています。双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館です。
訪れた方を迎えるのが、シアターで流れる震災前からこれまでの映像です。
■男性の語り
「あれは、わたしがまだ20歳の頃です・・・」
みなさん、この映像の声に聞き覚えがあるのではないでしょうか。
声を吹き込んだのは郡山市出身の俳優、西田敏行さんです。震災から14年。改めて、西田さんの福島への思いを振り返ります。
■2011年3月30日 西田敏行さん
「ふるさとをもう一度取り戻しましょう。頑張りましょう。応援しています。いや、僕も一緒に頑張ります。みんな、福島県の皆さん、がんばっぺね!やっぞ!」
2024年10月に亡くなった郡山市出身の俳優・西田敏行さん。
福島なまりの力強い言葉に14年前多くの県民が励まされました。
2011年4月1日 郡山市
■西田さん
「元気か!福島は負けねえぞ!」
原発事故が起きた直後に福島を訪れた時には…
■西田さん
「福島を汚したのは誰だ!なんだ!」
怒りをにじませ私たちの代わりに声を上げてくれました。
当時は、原発事故の影響で福島県内の一部の野菜などに出荷制限が出され、出荷制限が出ていない他の農作物も風評被害で受け入れてもらえず。
悔しくて悲しくて…やりきれない思いをした生産者がたくさんいました。
■西田さん(2011年4月1日 郡山市)
「負けないですよ!負けませんよ福島は」
西田さんのこの「負けない」という言葉。
覚えている人もいるのではないでしょうか。
■2011年4月1日郡山市で生産者の女性
「美味しい野菜をね。出来れば皆にと思ってますよね」
あの日、インタビューに答えてくれた女性は…
■直川アナウンサー
「失礼します御免ください…」
郡山市でねぎを生産する武田浩子さんです。
原発事故によって丹精込めて育てた野菜に突如突きつけられた「No」は武田さんの心に重くのしかかりました。
■武田浩子さん
「全部駄目でしたからね。美味しいよと言っても、「いや、放射能」といって食べてもらえないのは一番残念ですね。辛いですね」
震災後、福島が直面した深刻な風評被害。
誰もが不安と憤りを抱える中、立ち上がったのが西田さんでした。
■武田浩子さん
「安心安全だからがんばっぺって言った郡山なまりの言葉ですね。私たちはいつもそういう言葉(郡山弁)を使ってるから頑張ろうって」
■2011年4月1日 郡山市
「本当にうまいよ、本当に。全国の人に食べてもらいたいよ」
あの日、西田さんが送ったエールはいまも心に刻まれています。
■2011年4月1日 郡山市
「福島は負けませんから。マグニチュード9.0?津波の高さ14メートル?負けないよ」
■武田浩子さん
「泣けてしまう。本当に救われたね、西田さんには今でもまた言葉をかけてくれるかなとそんな感じでね…。西田さんがこういう風に、いつも負けないで頑張っぺ頑張っぺと言ったのが今にあるような感じ」
2月17日 浩子さんの畑です。
■武田浩子さん
「出てきてる!こちらがねぎの種になるんです」
浩子さんの畑には、ねぎの芽が顔を出していました。
震災から15年目の春。西田さんの思いは次の世代へ引き継がれます。
■西田敏行さん(2011年9月)
「3.11以前よりもっと素晴らしい福島を取り戻すために皆で力を合わせて、心を1つにして頑張りましょう!おれ今本当正直な気持ち、福島を故郷に持って本当に良かったと思っています。本当にありがとう」
訪れた方を迎えるのが、シアターで流れる震災前からこれまでの映像です。
■男性の語り
「あれは、わたしがまだ20歳の頃です・・・」
みなさん、この映像の声に聞き覚えがあるのではないでしょうか。
声を吹き込んだのは郡山市出身の俳優、西田敏行さんです。震災から14年。改めて、西田さんの福島への思いを振り返ります。
■2011年3月30日 西田敏行さん
「ふるさとをもう一度取り戻しましょう。頑張りましょう。応援しています。いや、僕も一緒に頑張ります。みんな、福島県の皆さん、がんばっぺね!やっぞ!」
2024年10月に亡くなった郡山市出身の俳優・西田敏行さん。
福島なまりの力強い言葉に14年前多くの県民が励まされました。
2011年4月1日 郡山市
■西田さん
「元気か!福島は負けねえぞ!」
原発事故が起きた直後に福島を訪れた時には…
■西田さん
「福島を汚したのは誰だ!なんだ!」
怒りをにじませ私たちの代わりに声を上げてくれました。
当時は、原発事故の影響で福島県内の一部の野菜などに出荷制限が出され、出荷制限が出ていない他の農作物も風評被害で受け入れてもらえず。
悔しくて悲しくて…やりきれない思いをした生産者がたくさんいました。
■西田さん(2011年4月1日 郡山市)
「負けないですよ!負けませんよ福島は」
西田さんのこの「負けない」という言葉。
覚えている人もいるのではないでしょうか。
■2011年4月1日郡山市で生産者の女性
「美味しい野菜をね。出来れば皆にと思ってますよね」
あの日、インタビューに答えてくれた女性は…
■直川アナウンサー
「失礼します御免ください…」
郡山市でねぎを生産する武田浩子さんです。
原発事故によって丹精込めて育てた野菜に突如突きつけられた「No」は武田さんの心に重くのしかかりました。
■武田浩子さん
「全部駄目でしたからね。美味しいよと言っても、「いや、放射能」といって食べてもらえないのは一番残念ですね。辛いですね」
震災後、福島が直面した深刻な風評被害。
誰もが不安と憤りを抱える中、立ち上がったのが西田さんでした。
■武田浩子さん
「安心安全だからがんばっぺって言った郡山なまりの言葉ですね。私たちはいつもそういう言葉(郡山弁)を使ってるから頑張ろうって」
■2011年4月1日 郡山市
「本当にうまいよ、本当に。全国の人に食べてもらいたいよ」
あの日、西田さんが送ったエールはいまも心に刻まれています。
■2011年4月1日 郡山市
「福島は負けませんから。マグニチュード9.0?津波の高さ14メートル?負けないよ」
■武田浩子さん
「泣けてしまう。本当に救われたね、西田さんには今でもまた言葉をかけてくれるかなとそんな感じでね…。西田さんがこういう風に、いつも負けないで頑張っぺ頑張っぺと言ったのが今にあるような感じ」
2月17日 浩子さんの畑です。
■武田浩子さん
「出てきてる!こちらがねぎの種になるんです」
浩子さんの畑には、ねぎの芽が顔を出していました。
震災から15年目の春。西田さんの思いは次の世代へ引き継がれます。
■西田敏行さん(2011年9月)
「3.11以前よりもっと素晴らしい福島を取り戻すために皆で力を合わせて、心を1つにして頑張りましょう!おれ今本当正直な気持ち、福島を故郷に持って本当に良かったと思っています。本当にありがとう」
最終更新日:2025年3月12日 20:08