徳島市出身の中国残留孤児の烏雲さんが5年ぶりに里帰り 子どもたちに語った想いとは【徳島】
2024年9月4日木曜日 おかえりなさい烏雲先生
中国から、5年ぶりにふるさと徳島に帰ってきました。
烏雲さん、日本名は立花珠美さん(86歳)。
徳島市国府町出身の中国残留孤児です。
第二次世界大戦末期、ソ連(当時)は日ソ中立条約を破棄し、中国東北部の満州へと侵攻します。
そして終戦前日の8月14日、ラマ教の寺院「葛根廟」を目指して避難する日本人に突如、ソ連軍が襲い掛かりました。
頼みの関東軍はすでに撤退した後でした。
残された女と老人、子どもたちが戦車と装甲車数十台に踏みつぶされていきました。
約1200人が犠牲になったといわれる「葛根廟事件」、この中に烏雲さんはいました。
この時わずか7歳、1人ぼっちになった烏雲さんはさまよい歩いた先で中国人の養父母に拾われ、わが子同然に育てられました。
そんな養父母と、自分を育んでくれた中国の草原に恩返ししたい。
そんな思いから、烏雲さんは砂漠化が進んでいた中国の内モンゴルで植林活動を始め、これまでに約600ヘクタールを緑豊かな土地に変えてきました。
2024年9月5日金曜日 烏雲さんは地元の北井上中学校文化祭へ
来日翌日の5日、烏雲さんは地元の徳島市国府町の北井上中学校の文化祭に招かれました。
1981年、当時、中国内蒙古自治区で中学校の先生をしていた烏雲さんは、中国残留孤児として日本へ帰国し、兄の甫さんと40年ぶりの再会を果たしました。
国府町の実家に戻った烏雲さんを、地元の人たちはあたたかく迎え入れます。
しかし烏雲さんは6か月の滞在予定を、1か月早めて帰ると言い出しました。
(北井上中学校の文化祭での烏雲さん)
「みなさん、こんにちは。私日本語は少しだけわかるですから、中国語で」
通訳を務めたのは、自身もまた国境という見えない壁を実感している徳島在住の中国人女性です。
あの日なぜ、烏雲さんは中国へ帰る道を選んだのでしょうか。
現地でもうけた2人の子と孫、そして育ててくれた養母のいる国が、烏雲さんにとって生きていく場所だったのです。
生徒は問う「争いのない平和な世界を作っていくためには?」
(中学生)
「争いのない平和な世界を作っていくために、烏雲先生は何が大切だと思いますか?」
(烏雲さん)
「みなさんまだ若いので、私は歳をとっているけど。若いので希望が持てる、そしてこれからの平和で幸せな世の中を皆さん1人ひとりの力で守っていくことを、みなさんにお願いしたい。あともう一つ、日本と中国、この2つの国で色々ありましたが、これから平和で末永く、平和で仲良くできるよう、みなさんに託したい。よろしくお願いします」