【元死刑囚の妻】冤罪「免田事件」夫の後半生を支え続けた生涯 夫妻から託されたバトン
死刑囚だった免田栄さんが再審=裁判のやり直しで無罪となった冤罪「免田事件」。免田さんの後半生を支えた妻の玉枝さんが今年10月に亡くなりました。「元死刑囚の妻」として免田さんの後半生を支えた玉枝さん。その死が私たちに突きつける冤罪の根深い影について考えます。
12月8日、福岡県大牟田市で営まれた法要。死刑囚として初めて再審無罪となった免田栄さんの妻・玉枝さんの四十九日です。社会復帰した夫を36年にわたり支えた生涯でした。
1948年12月に人吉市で一家4人が殺傷された冤罪「免田事件」。翌1949年1月、当時23歳だった免田さんが強盗殺人の容疑で逮捕され、警察の取り調べで「自白」に追い込まれました。
■免田栄さん(2003年)
「踏む、蹴る、殴る、誘導尋問、暴力という戦術があるんですけど、徹底的に疲労させておいて、食事も与えない、寝せない、水も飲ませない。そうした中で、自白に」
裁判で無罪を訴えたものの死刑判決が確定し、獄中から再審=裁判のやり直しを求め続けました。
そして逮捕から34年後の1983年7月。
■免田栄さん
「皆さんのおかげで自由社会に帰って来ました」
アリバイを認める完全な無罪判決が言い渡されました。しかし、事件は時効を迎え真犯人はわからないまま。無罪となっても、厳しい偏見の目が向けられ続けました。
無罪判決の翌年の1984年12月、58歳になっていた免田さんは、釈放後に出会った11歳年下の玉枝さんと結婚しました。ふるさとから離れた大牟田市の6畳2間での暮らし。
■免田栄さん(2013年)
「郷里には行かないです。郷里は今のところ地獄ですから」
夫婦は親族と距離を置き、息をひそめるように暮らしました。
そして、2020年。
■玉枝さん
「免田が亡くなったよ~。1人であなた逝ってしまったね、私を残して」
免田さんは95歳で激動の人生に幕を降ろしました。
それから3年。去年、玉枝さんを訪ねると、免田さんが夢に出た話を聞かせてくれました。
■玉枝さん
「『ご飯食わせろ』って言って、戸を開けてくるんですよね。なんかお腹空いてるみたい、(空の)上で。そんな夢ばっかり見るんですよ」
その玉枝さんも今年10月、後を追うように亡くなりました。88歳でした。
免田夫妻の支援者が喪主をつとめた葬儀。参列者の中に、高齢の女性の姿がありました。免田さんの弟の妻・文子さん。長年会うことができなかった玉枝さんを偲びました。式の後、文子さんが向かったのは免田栄さんが安置されている寺です。免田さんの葬儀に参列できなかったため、初めて遺骨と対面しました。
■免田文子さん
「ありがと。玉枝さんば頼むばい」
免田さんをそばで支え続けた玉枝さんに感謝を伝えるため、足の悪い夫に代わって駆けつけたといいます。
■免田文子さん
「感謝の気持ちで玉枝さんに参ってこいと。うれしかやら、悲しかやら」
冤罪で引き裂かれた家族の絆。2人が亡くなってようやく取り戻されました。
■免田事件資料保存委員会 高峰武さん
「“死刑囚の妻”と“その弟の妻”ということで、とても厳しい時代を送ってこられたと思うんですね。最後に棺に取りすがるようにして『お世話かけましたなあ』という言葉をかけていただいたので、それを見ていてこちらも胸が詰まる思いがしました」
こう話すのは、再審無罪以降も免田さん夫妻の取材を続ける高峰武さんです。獄中で免田さんが書いた手紙や手記を資料集にまとめるなど、事件と向き合い続けています。
この日は長年、免田さん夫妻を支え玉枝さんの喪主もつとめた川上洋さんの自宅へ。
■川上洋さん
「これは玉枝さんが持ってたもんですね。これは全部、玉枝さんの部屋にあったものです」
見せてくれたのは、40年近い交流の中で川上さんが夫妻から預かった資料です。
■免田事件資料保存委員会 高峰武さん
「これはいくつだろうか?」
■川上洋さん
「これは若いですね、まだ来て…」
■免田事件資料保存委員会 高峰武さん
「大牟田に来てすぐぐらいでしょうね」
資料は、今後の研究に役立ててほしいと高峰さんたちに託されました。司法に翻弄された人生を支え合って生き抜いた2人。冤罪「免田事件」が起きてまもなく76年です。
■免田事件資料保存委員会 高峰武さん
「日本社会は戦後5人、死刑囚が無罪になって出てきたという、そういう社会です。これをどう冤罪のない社会にしていくのか、これは免田さんから託されたものではないかなと思ってます」
免田夫妻から重いバトンが託されました。