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「国は誠実に向き合ってほしい」症状に苦しみながら水俣病と認められない男性の思い

2024年5月1日 20:06
「国は誠実に向き合ってほしい」症状に苦しみながら水俣病と認められない男性の思い
水俣病の公式確認から68年、今も「水俣病と認めて欲しい」と訴える人が多くいます。水俣病の症状に苦しみながら裁判で国や企業の責任を追及する被害者、そして支援を続ける人たちを取材しました。

水俣市袋で甘夏ミカンを栽培している佐藤英樹さん(69)。佐藤さんは幼い頃から水俣病の症状に苦しめられてきました。1954年、佐藤さんは漁師の家に生まれました。水俣病が公式に確認される1年余り前です。その後、父親も母親も祖母も水俣病に認定されました。

■佐藤英樹さん
「杖をつきがらでも盆正月の時に買い物に一緒に行ったことは覚えている」

水俣病は、原因企業のチッソが垂れ流した工場排水に含まれたメチル水銀が引き起こしました。当初、繰り返し報道された体が激しくけいれんし引きつけを起こすなどのニュース映像ばかりが注目され、水俣病のイメージが固まっていきました。しかし、その陰でメチル水銀はもっと広く住民たちの体をむしばんでいたのです。

■佐藤英樹さん
「こむら返りは、私の親父が言っていたけど夜中に足がつって泣いていた。でもそれが水俣病とは結びつかない。一般の者はみんな水俣病を知らない」

佐藤さん自身も、慢性的な手足のしびれやこむらがえりに悩まされながらも、それが水俣病の症状とはわからないまま大人になりました。30代の頃、医師に診てもらったところ、「水俣病の疑いがある」と診断を受けました。それ以来3回、水俣病の認定を申請しました。

3回目の申請を行ったのは2005年。その結果が届いたのは10年後の2015年でした。結果は「棄却」。

■佐藤英樹さん
「総合的判断で棄却になった。みんな納得できない。私も納得できない。地域の人から、山に住んでいる人が認められた。絶対あんた達は認定されないといけないのにと言われたこともある」

このままではらちがあかないと佐藤さんは、国と熊本県、チッソを相手に裁判を起こしました。2014年3月、一審の熊本地裁は佐藤さんを含む原告3人を水俣病と認めました。しかし2022年3月、二審の福岡高裁は一転して原告の訴えを退け、最高裁で敗訴が確定しました。

■佐藤英樹さん
「紙一枚で終わるということが、とても悔しいし情けない」

佐藤さんたちが作る「水俣病被害者互助会」の活動を長年支えている支援者の谷洋一さん。福岡県出身の谷さんが水俣病と関わったのは、鹿児島大学の学生の時でした。当時、学生運動が大きな盛り上がりを見せていました。

■谷洋一さん
「反戦の市民運動とか沖縄の問題、あるいは環境問題に取り組むようなグループができて、そういう仲間達と一緒に取り組んでいった時に水俣病の問題を知った」

患者の補償交渉を支援するため、東京のチッソ本社前に1年以上にわたって座り込みました。1973年、チッソを訴えた裁判で患者が全面勝訴。その後のチッソとの交渉は忘れることができないと言います。

■谷洋一さん
「患者が上京して、チッソの幹部に人間としての生き方を問いましたよね。当時一緒に行っていた人たちの近くの家を通ると、51年前のことがよみがえる」

水俣病は、被害者が自ら申請しない限り、救いの手を差し伸べられることはありません。偏見を恐れながら申請し、膨大な書類を書き、何時間も検査を受ける被害者たち。そうした手続きを手伝いながら谷さんは、被害者を被害者と認めない社会でいいのだろうかと問いかけます。

■谷洋一さん
「あまり救済という言葉は使いたくない。助けられないもん。被害者の苦しみや悲しみは続くと思うし、家族のことも。それを被害者としてすら認めない社会制度がおかしいと 思いますから。日本の社会自体の社会制度を含め、水俣から問いかけないといけない」

水俣病の公式確認から68年。市が主催するの慰霊式に佐藤さんの姿はありませんでした。佐藤さん、そして谷さんが参列したのは、水俣病で犠牲になったすべての命を等しく悼む慰霊祭です。

■佐藤英樹さん
「公害の原点と言いながら何もしないということは、本当に国として恥だと私は思っています。本当に被害者に対してきちんと誠実に向き合って、自分たちのしてきたことに対して責任を持ってほしい」