「天気は平和のシンボル」戦時中は黒く塗られた庁舎…観測つづけて133年!生まれ変わる“松山地方気象台”
およそ2年間に渡って増築、改修の工事が行われてきた松山地方気象台。その工事が完了し完成記念式が行われました。気象観測を続けて133年、新たな命が吹き込まれた庁舎に注目です。
愛媛の気象観測や防災情報発信の拠点である松山地方気象台。
今から133年前の明治23年、愛媛の気象観測の歴史は現在の松山東警察署にほど近い場所に建てられた「県立松山一等測候所」でスタートします。
その後、時代が昭和になると今の場所に移転。第二次大戦中は空襲を避けるため庁舎は黒く塗られ、天気予報が発表されない時代もありました。
戦時下の天気予報とは…雨は空襲の影響で降った可能性も
こちらは1945年、昭和20年当時の気象台職員が行った気象観測の記録です。
松山地方気象台 防災気象官 岩田奉文さん:
「松山空襲があった時の記録になります。7月26日の深夜から27日の3時か4時、火災により観測できませんでした。(空襲)と書いてます。恐らく煙で雲の状態が見えなかったんじゃないかなって推測されます」
職員が自分の目で観測した空の状態を表す天気記号。黒く塗られた丸が意味するのは“雨”ですが…
岩田さん:
「当時の天気図をみてると高気圧に覆われてるので」
岩田さんによると、本来は晴れているはずが空襲によるすすやほこりが粒子がとなって局地的に雨を降らせた可能性があるということです。
岩田さん:
「天気は平和のシンボル。この観測データが、松山のみならず全国、あるいは世界でも使われるような気象データのもとになります」
昭和3年、1928年に建てられた松山地方気象台の庁舎は県内でも先駆けとなる鉄筋コンクリート造りの近代建築で、2006年に国の登録有形文化財となりました。
その価値を後世に残すため、おととしから改修工事が始まり、今年春には増築された第二庁舎へ、丸2日間かけて引っ越し作業が行われました。
全国の気象台に2か所だけ!かつてのシンボル「大時計」が帰ってきた
建設当時から庁舎の正面で時を刻んできた大時計。長らく地域に時間を知らせる役目を果たしていましたが、55年前に故障が原因で撤去されていました。その大時計が、再び設置されることになったのです。
水口気象予報士:
「今、文字盤がゆっくりと上がっていきます」
気象庁によると現在、日本全国の気象台に大時計が設置されているのは横浜と松山の2か所だけだと言います。
昔の大時計を知る近所の男性:
「おおー!これぐらい文字盤が大きかったら年寄りでもみえる!やっぱり松山のシンボルじゃな」
試運転を経て、いよいよ大時計が動き始める日を迎えました。
岩田さん:
「正確な時間に向けて今長針と短針がぐるぐると動いてギアが回っている最中です」
水口気象予報士:
「まさに時計が動いて時間に合わそうとしている状態」
作業員:
「これで現在時刻に合ってる状態ですね」
職員たち:
「歴史的な瞬間」
「ですね」
「10月11日10時。おーまた動いた。ゆっくり動きますね」
職員:
「いよいよ動きだしましたね。現代に帰ってきましたね」
直径1.7m、気象台のシンボルの大時計が半世紀ぶりに復活。石張風の外壁や装飾も修繕され、築95年、国の登録有形文化財が建造当時の姿を取り戻しました。
国交省 四国整備局 森本哲朗さん(改修工事を担当):
「建築当時、鉄筋コンクリート造を扱うのも試行錯誤の時代だと思います。それも崩さずに保存できているのかなと思います。すごいなと思います。貴重だなと」
建築当時の建物を保存 後世に残す歴史的な価値
建物内は、3階まで吹き抜けの玄関ホールに…木製の階段。
この春まで愛媛の天気予報の本丸を担ってきた現業室の入り口を飾るデザインガラスは建築当時のもの。正面入口を入ってすぐの場所には当時、受付として使われていた小窓が復活しました。
昭和初期に流行した上げ下げ窓が時代を物語っています。
さらに、こちらは“信号柱”。
岩田さん:
「四角い旗とか三角形の旗を掲示して、白い四角い旗だったら晴れですよとか、三角形だったら風向、北風ですよとか。これを住民の皆様にお伝えしていたと」
ラジオやテレビを通じて天気予報を知ることができなかった時代。その日の天気は旗の色や形で住民に伝えられていました。
明治の時代から気象観測を行っている松山地方気象台。職員が目視で観測を行っていた時代から技術が発達し、今や全て自動で観測が行える時代に。
松山地方気象台 石川陽一次長:
「ここは防災気象情報の発信の拠点でもあります。気象台としては引き続き適格な気象情報を発表することで県民の皆様の信頼を引き続き得ていくことを考えていたいと思います」