【特集】バイク事故で手足が不自由に 全身まひの男性が見つけた“生きがい” 《新潟》
高校生の時に事故で首の骨を折り、それ以来、手と足が動かせなくなった男性が新潟市南区にいます。
かつては自暴自棄になり、人にあたったことも……。
そんな男性を救ってくれたのは“絵を描く”ことでした。
色彩豊かな作品は口を使って描かれます。絵を通して伝えたいことがありました。
6月6日、新潟市南区で行われた“白根大凧合戦”です。
大空を優雅に泳ぐ凧……。
「わっしょいわっしょい」
熱狂に包まれる会場。その様子を少し離れたところから眺めている男性がいました。
飯原孝さんです。
毎年、祭りは必ず見に来ているといいます。
【飯原孝さん】
「俺、小さい頃に(たこを)引っ張っていたので、それを昔懐かしくて」
いまは綱を引くことはできません。そして、ひとりでご飯を食べることも。新潟市南区に住む飯原さん。
1日のほとんどを介護を受けながら生活しています。
38年前、飯原さんはバイク事故を起こしました。
首の骨を折る重傷を負い、意識が戻ると手足の感覚がなくなっていました。
【飯原孝さん】
「最初は何が何だかわからなくて手と足がきかないのはわかっていたんですけど、段々ああきかないんだなっていうのが自分でもわかってきて」
「そんなに驚くことがなかったんだけど、どういう思い、どういう思いだったんだろうな、治るんじゃないかな、いつかは 治るんじゃないかなと」
高校2年で手足の自由を失いました。楽しみも、失いました。
Q)野球とかはやっていました?
【飯原孝さん】
「あースポーツは好きでやってました、ソフトテニス、クラブでやっていた、どちらかというと見るよりは動く方が好き」
八つ当たりをした時もあったといいます。
【飯原孝さん】
「看護師さんにあたったりお母さんにあたったりとか、つばとか吐いたこともありますけど、自分に返ってくるから、どうしようもない、自業自得」
■母の支え
事故のあとは柏崎市にある特別支援学校に入りました。
そこには、難病を患い飯原さんのように手足を動かせない人も……。
【飯原孝さん】
「筋ジストロフィーの人と一緒に20歳まで高等部に入るために一緒に生活していたことがある。今はもうみんな亡くなって交流はありませんけど」
「30ぐらいの時にいろいろ考えること考えて自分はどうしていいのかこれから社会にとってどうやって生きていこうかとかそういうの考えましたね」
この体でどのように生きていけばいいのか……。
支えてくれたのは母のキクさんでした。
外に出ることをためらっていた飯原さんを連れ出し、旅行に行くようになりました。
そして、“生きがい”が見つかりました。
それは、絵を描くこと……。
手が使えないため口で筆をくわえて描きます。
【飯原孝さん】
「思った色と違う色が出たりしてそこが楽しくもあり難しくもある」
事故の前から絵を描くことが好きでした。
和室に飾られていたのは支援学校の時に口を使って初めて描いた作品。
【飯原孝さん】
「励ましてくれていろいろ、そんな思いがあって(看護師を)描いた」
Q)上手に描けてますね?
「今の方がもっと上手!自分でいうのもなんだけど」
当時はリハビリの一環で絵を描いていましたが、30歳を過ぎ画家として自立しようと決意したのです。
【飯原孝さん】
「絵を通して、感謝の気持ちを伝えたい、今までお世話になった人に感謝の気持ちを伝えたい」
■ファンから手紙も
ファンもできました。
ある姉妹は飯原さんの絵を見るためよく展覧会に来てくれるといいます。
手紙のお返しに、絵のプレゼント……。
【飯原孝さん】
「私の絵がどういう風にみられているのかなと思っていたんだけど、こんな手紙なんか頂いて、 やってきてよかったなと思って」
飯原さんが見つけた自由な世界。
介護しながら旅行に連れていってくれた母・キクさん。4年前に亡くなりました。
認知症が進行し自分が車いす生活になってからも旅行には毎年のように行っていたといいます。
母が亡くなってからはひとり暮らしを続けている飯原さん。
ことしの春、沖縄に行きました。
【飯原孝さん】
「母と前に行ったところをもう一回たどって古宇利島を見なかったので」
「お母さんにお世話になったので私に尽くす人生みたいな……最後まで孝、孝って言っていた」
Q)この絵をお母さんが見たらなんていいますかね?
「きれいだねってほんとに……」
「最初に暗いところを塗って、あとから明るい色を塗っていく。暗い時期が多かった、どちらかというと暗い時期の方が多いかもしれません」
「影があって明るいところが目立つ、一番光って見える」
ことし6月26日、東京の有楽町駅に飯原さんの姿がありました。
駅前の建物であるイベントが開かれるというのです。
会場に並ぶ、色彩豊かな作品。“口と足で描く芸術家協会”が開いた、展覧会です。
協会はヨーロッパに本部があり国内では20人が活動……、飯原さんはそこで奨学金をもらいながら絵を描き続けています。
モチーフにしたのは地元が誇る祭り、「白根大凧合戦」。
絵を始めた当初は筆が震えて満足に線を引くことができませんでした。
見る人に何かを感じ取ってもらえれば……。
そんな思いで絵を描き続けてきました。
【来場者は】
「なんとも言えないですね、手でもなかなか難しいですけど、驚くばかりですね」
「すごいですね、涙が出そう……(自分は)五体満足で何にもできないのに、今まで何してたんだろうって思っちゃって」
■手紙をくれた姉妹と再会
描き始めてから数時間……。
「こんにちは」
姿を見せたのは、あの手紙をくれた姉妹の美紗乃さんと麻乃さんです。
飯原さんの絵が大好きな、ふたり。
■姉妹と5年ぶりに
コロナ禍前までは毎回のように展覧会に訪れていました。
マネをして口に筆をくわえて絵を描くときも……。
【美紗乃さんと麻乃さん姉妹】
「色使いが上手」
【飯原孝さん】
「ありがとう、子どもの意見は大事に」
5年ぶりの再会。
ふたりは見違えるほど大きくなっていました。
【飯原孝さん】
「泣きそうだ、大きくなって。だんだん成長していく……5年ぶり、よかったですよ」
飯原さんはことし、54歳になりました。
年々感じる、体力の衰え……。
それでも絵に対する意欲は以前より高まっているといいます。
【飯原孝さん】
「人との出会いがたくさんあっていろんな人と出会えた……事故にあわなかったら多分こんな人生は送っていないと思う。皆さんに喜んでいただけるような絵をこれからも描きたい。たぶん寝ながら今度は描くようになる」
「(見た人が)変だなと思ってもいいし、その人の気持ちがどう思うのか なんて人それぞれだと思いますけど、どうかな、難しいです」
「夢はもっともっと頑張って……ごめんなさいね、真っ白くなってます、夢、夢はね……もっともっと」
絵を描くことが生きる希望になりました。
人生に彩りを与えてくれました。
そのキャンバスにはいつの日も大きな夢が広がっています。
大空のように……。