【酪農大家族30年④】父と長男の歩み 限りなく自然な「山地酪農」への思い
シリーズでお伝えしている田野畑村の酪農大家族30年の歩み。
30日は父・吉塚公雄さんと長男・公太郎さんの限りなく自然な酪農、「山地酪農」への思いをお伝えます。
遠藤記者の取材です。
私たちが取材を始めた30年前、家族はいつも一緒でした。
山の木を切り倒し、切った木は、たき木にして木を倒した後に牛を放つ。
「山地酪農」の基本です。
仕事は家族みんなで。それが吉塚家のルールでした。
吉塚公雄さん
「恥も外聞もなく申し上げるとすれば充実感とか豊かさというのは断じて物質や 物質じゃないと負け惜しみで言っているように聞こえるかもしれませんけどねそういう感じが本当にしています」
夏も冬も四季を通して牛を山に放つ「山地酪農」。
日本固有のシバと、自然に生えた様々な草が健康でたくましい牛を育みます。
( 草が食む音)
吉塚公雄さん
「ここのシバを見てください。地面が見えません。シバだけじゃなくて、いろいろ草が混ざっている。クローバーも目立つし、これはナガハグサっていう、ケンタッキーブルーグラスっていう春草」
「山地酪農」の提唱者・猶原恭爾博士。
山に生える草を牧草として応用することを考え、山地酪農として広めることに生涯を捧げました。
東京農業大学在学中、猶原博士の考えに共鳴した吉塚さんは「山地酪農」を実践し、広めることを一生の仕事にしようと決意。
出身地の千葉県から田野畑村に移住して山の木を切り倒し、シバを一本一本植え続けました。
吉塚農場はシバや牧草に覆われ、牛がゆったりと草を食んでいます。
吉塚さんは自分たちで生産した限りなく自然な牛乳を混じりっけなしで売りたいと1996年から自前のブランド牛乳、「田野畑山地酪農牛乳」として販売を始めました。
生産者は吉塚さん、それに同じ田野畑で「山地酪農」をしている熊谷さん。
2軒で盛岡などへも配達しました。
顔の見える農業の先駆者です。
2001年春。
「泣くな~ バイバイ」
高校を卒業した長男・公太郎さんは北海道へ酪農実習に出ました。
男の子はみんな山地酪農家にする考えのお父さんは高校を出たらみんなどこかの農家に行って、よその家の世話になりながら技術を磨かせようとしていました。
公太郎さんも汗をかきながら、将来への夢を膨らませていました。
吉塚公太郎さん(当時18)
「インターネットで山地酪農牛乳のホームページを作って外国からも『牛乳をくれ』って言われるように頑張りたいです」
東日本大震災から1週間、吉塚農場を訪ねました。
公太郎さん
「どこの酪農家もみんな搾って、そのまま捨てている。プラント(工場)も動かない」
翌朝、いつものように乳しぼりを終えた吉塚さん一家は大切な牛乳を無駄にしない方法を考えていました。
「田野畑山地酪農牛乳」を加工してくれる村の工場は動いていません。
吉塚さんは搾りたての原乳加工していない牛乳を村の中心部に運ぶことにしました。
田野畑村では当時の人口3834人のうち1割を超える430人が避難所での生活を余儀なくされていました。
吉塚さんは避難所に原乳を配り、沸かして飲んでもらいました。
吉塚公雄さん
「よかったよ。牛乳が生きるから」
避難民
「70代でもファイトがあるんだから」
震災の翌年長男・公太郎さんが平泉町出身の吉野小織さんと結婚。
地元の公民館で喜びの日を迎えました。
小織さん
「こんな日が来ることが思っていましたか私も信じられません」
公太郎さん
「果たして自分が相手の人生を責任を取れるのかどうかと細かく考えすぎてしまい、やはり自分は至らない男なので相手の人生を台無しにしてしまうのではないかということを強く思っていたので今回のお見合いはお断りしましたが」
幼い頃から厳しくしつけてきた大切な「山地酪農」の後継者の結婚でした。
公太郎さんと公太郎さんの長男、康希ちゃん。
お父さんと同じように歩き始めるとすぐに牧場に行っていました。
自分の体重の200倍もあるような大きな牛にもひるむことはありません。
お父さんの手伝いをして牛を追う康希ちゃん。
「山地酪農」は公雄さんから公太郎さん、康希ちゃんへと受け継がれようとしています。
公太郎さん
「はい、 来い来い来い来い、親父からも『よくやった』と最近やっと言われるようになってきたので『努力して良かったな』と思っています。あとは二代目が、三代目が、『お父さんの跡を継ぎたい』って言ってもらえるように」
5月、バイクで牛を追っていて転倒し、左肩を痛めてしまった公雄さん。
それでも休まず牛舎に入って息子の手伝いをしています。
吉塚公雄さん
「そういう農家になりたいという人を作る。それしかないと思っているんですよ。それがひいては地域の力になるし、地域の力になれば地方の力に、地方の力になれば国の力になる。そこは信じて疑っていません」