宮沢賢治「注文の多い料理店」出版100年 賢治への思い
宮沢賢治の童話集注文の多い料理店が出版されて、今年はちょうど100年になります。出版した及川四郎の孫にあたる光原社の川島富三雄社長に祖父や賢治への思いを聞きました。
岩手県盛岡市の材木町に佇む宮沢賢治の像。商店街の中心的な店、光原社は、賢治のイメージを市民や観光客に伝え続けています。
光原社 川島富三雄社長
「結局賢治さんが出版社らしい名前というものを考えてきてくださって、3つ考えてきてくださったんだそうですが、その中から光原社という名前をこの出版のために決めたんですね。祖父が選んで決めたんです。それが私どもの100年の光原社と決まってからの100年ということになった」
川島さんの祖父、及川四郎は友人と農業テキストを作成し、花巻農学校の教師をしていた宮沢賢治に売り込みに訪ねました。すると賢治は、逆に自らの童話集の出版を持ち掛け新しいもの好きだった及川らは出版を決断したそうです。
賢治の生前唯一の童話集「注文の多い料理店」は、東京の印刷所で印刷され、賢治の原稿をもって及川四郎が岩手に帰ろうとした時「事件」は起きました。
川島社長
私が小学校4-5年生の時ですけど、教科書に「よだかの星」という童話が出てきた。学校でみんなで朗読したり色々して帰って「賢治ってどんな字を書くんだろう」って祖父に聞いたら残っていたら見たいなって言ったのかな、そしたら「実はこれの印刷は東京でやって全部終わって帰りに持って帰る途中に上野で置き引きされた本当にそれが残念でしようがない」という話を「でも内緒だよ」っていう理屈で頼まれました。
人も動物もみんな同じように生きているという世界観を持っていた宮沢賢治。光原社の庭や建物は、そうした賢治の思いを及川四郎が表現しました。
川島社長
「何とか注文の多い料理店を心に皆さん来る方に残していただきたいというのが目的です。それとうちがやっぱり賢治の最初の出版物の会社だということをアピールしたかったんだと思います。全部(庭の)基本は祖父が亡くなる前に庭を設計して作って亡くなったんです。
川島社長
「岩手というのは 盛岡日本のチベットと言われていたわけですね。情報にも閉ざされて 距離的にも東京 いわゆる日本の文化圏とはかなり離れているそういう場所だったんで、おそらく賢治さんともそういう話をなさったと思うんですけど「井の中の蛙大海を知らず」って言う言葉がありますね。 ことわざただ井戸の中から真上を見たら夜には星が見えるんだと、その星1つでもいい2つでもいいそれを一生懸命目指せとそういうことをね しょっちゅう私らに聞かせて情報が閉ざされようが何しようが自分が大事だと思うことを一直線に目指せと、こういういわゆる閉ざされた社会にいても何とかなるんだと そういうことを口うるさく言ってくれましたねそういう祖父です
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の考えは、今こそ広く知ってほしいと川島さんは訴えます。
川島社長
「ロシア・ウクライナイスラエル・ガザそういうことは全く逆のことですよねそういう意味ではみんなに賢治の思想が広がるといいなと思います」
記者「川島さんの仕事としてはやっぱり材木町でも発信して賢治の思想を広めたいということですね」
光原社の創業者及川四郎は日本の民藝運動を主唱した柳宗悦の思想に共感し、日本各地の優れた民芸品を販売しています。物の美に宗教の真理を見出した柳の考えは、仏教に人々の幸せを願った賢治の考えに通じるものがあったのかもしれません。