『笑点』卒業の林家木久扇86歳、波乱万丈の“おもしろ”人生~②笑点出演のきっかけは“銭湯” 立川談志さんとのマル秘裏話、乗り越えた大ピンチとは
■ブレイクのきっかけ
昭和36年(1961年)頃、私は楽屋入りして、鈴本演芸場に出ていったときに、夏だったんですね。(立川)談志さんが飛び込んできて出番がありまして、「暑い暑い」って。(高座から)下りてきて「たまらないな。この暑い時に一席やるのは汗かいちゃった。風呂行ってくるよ」って談志さんが言ったから、私も前座で毎日働いていましたから、下町のお風呂屋さんって(午後)3時から始まるんですよね。寄席がはねるのが(午後)4時半ですから、毎日お風呂行っていたんですよ。広い空間が好きでね。楽屋にタオルと石けんとカミソリ一式を持っていたんです。それを持ってきて、これ使ってくださいと談志さんに出したら、談志さんが目むいて「お前すげえな、お前売れるぞ」って言ってくれたんですよ。それからなんだかんだって談志さんが気に入ってくれてね。
笑点が始まった時、談志さんが笑点の司会だったんですけど、今もやっていますが、若手大喜利っていうのを作ったんですよ。そのときに僕を入れてくれて。
その後、談志さんが推薦してくれたんでしょうね。私は笑点のメンバーになったんです。前田武彦さんの時にね。
メンバーになって、やっぱり気使いましたよ、みんなに。(桂)歌丸さんや(林家)こん平さんにお茶入れたりしてね。歌丸さんが「メンバーなんだからそんなことしなくていい。いい答え言ってウケればいいんだから」と言ってくれて。
■『笑点』のマル秘ウラ話
スランプといえば後輩が笑点のメンバーになったとき、(三笑亭)夢之助さんとか(三遊亭)円楽さん(当時・楽太郎さん)がなったとき焦ったんです。僕は杉作だし、いやんばか~んだし。夢之助さんはすごい滑舌で若いから青春の雰囲気持っているんですね。円楽さんは時局的なことを言って、これも僕の得意じゃない分野なんですよ。それで 2人がメキメキ出てきて僕は、なんか置いていかれちゃうのかなと思いましたね。
――ご自身の持ち前の芸風を変えようとか、何か試行錯誤はあったんですか?
やっぱり変えようというよりもね、笑点見ている視聴者は幅が広いですね。私は杉作とかいやんばか~んとかって言って、中年の人それ以上の人を対象にしていたんですが、子供に向けた分かりやすい回答をやった方が長続きするんじゃないかということに気がつきまして。「犬がひなたぼっこしている あれはホットドッグだよ」とかね。
「これは絵ですか、ええ。いい絵ですか、いいえ」とか ダジャレをいっぱい入れるようになって。「大谷(翔平)の結婚話には、球げた」とかね、そういう頭になってきて。
――ダジャレ、おとぼけキャラ、おバカキャラはどこから?
談志さんが「お前、与太郎やればいいじゃないか。あれは得な役だぞ」と言ってくれたんです。本当に得な役でね。あのテレビの回答同じ言葉ダダダってなっちゃったり。(答えが)浮かばないでええと、ええとってやっていても、「あいつ与太郎だから」っていうことで許される。それは談志さんから始まって、今まで続いた路線なんです。
■人生の大ピンチ
2000年に胃がんを患いまして、手術をしました。病院で許可もらって抜け出して点滴をつけたまま後楽園ホールに駆けつけてね。本番だけ外してまた点滴して病院に戻るということやっていました。2014年なんですけど、喉頭がんをやりましてね。声帯の上に第2ステージだったんですね。運が良かったのが放射線を大学病院が入れたばっかりだったんですね。それが高い機械でね。10億円の。どういう形っていうと、長っ細い冷蔵庫みたいな。それでいろんなものがついていてね。これは喉焼けちゃうんじゃないかなと思ったらね、仮面が用意してあって白いね。バツ印がついていて、ピンスポットに光を当てて1日通院して3分。熱さは、ひなたぼっこぐらいの感じで、それを40日で治してくれるのその機械が。だけどその時はね、やっぱり10億の機械だって言うんでね。戦闘機2機買えるって先生が言っているんですよ。そんな機械で治したら1回照射がやっぱり3万円 、5万円。1か月以上かかったら、すっげえ金額になっちゃうと思ったら、保険がきいて本当助かりましたね。運が良かったですね。
【林家木久扇さんProfile】
1937年(昭和12)10月19日生まれ
1960年(昭和35)8月、三代目 桂三木助に入門。桂木久男を名乗る
1961年(昭和36)八代目 林家正蔵 門下に移り、林家木久蔵となる
1965年(昭和40)二ツ目昇進
1973年(昭和48)真打ち昇進
2007年(平成19)林家木久扇襲名
2024年(令和6)3月31日をもって55年出演した笑点を卒業