あの時代は「残酷だった」 小学生…あだ名は“女のなりかけ” カルーセル麻紀81歳、差別や偏見と“闘い”の人生
■ダンスを教えてくれたのは漁師「あんた女の子みたいだね」
──出身は北海道・釧路市だった
あたしが子どもの頃、とてもにぎやかだったんですよ。遠洋漁業と炭鉱がありましたから、繁華街があって、そこにキャバレーやクラブが乱立していました。
家から歩いてすぐのところに、幣舞橋(ぬさまいばし)という橋があって、そこに着いた船によく遊びに行っていました。小学校2~3年の頃かな、ダンスを教えてもらいました。小学校の時に、マンボとかジルバを踊れたんですよ。漁師さんたちは男でしたから、“じゃあ女役やって”と言われて、「はーい!」とやっていました。「あんた女の子みたいだね」と、よく言われてましたよ。
──どんな家族でしたか?
父親はサラリーマンをやってました。周りはみんな漁師さんで、うちだけでした。両親と、私を入れて9人きょうだい。兄貴はもう6歳くらい離れていました。小学校3年生ぐらいのとき、教科書も全部、お下がりが来るんですけど、それが嫌で嫌で嫌で嫌で…。男物のにおいがするのがとっても嫌でした。
お小遣いもらえないし、親に言われたわけでも何でもないんですけども、自分で新聞配達を始めたんですよ。北海道は寒いけど、夏は蚊に食われる。自転車もなかった。でも、いまだに覚えていますが、配達と集金と拡張(勧誘)で月330円稼いでいました。当時、ラーメンの値段が30円くらい。親に“あれを買って、これ買って”というのはなく、自分で買っていました。
■番長に「あの子たちがいじめる」 処世術を“持ってました”
──小学生の時から、女性的な服装をしていたのでしょうか?
2つ年上の姉がいたから、その服をちょっと借りたりはしました。兄貴とは年が離れているし、父親も怖かった。それで姉とおはじきしたり、お手玉したり。あたしの方がうまかったから「男のくせに!」って叩かれたんです。
その頃、“僕”とか“俺”って言ったことはなかったんですよ。“アチシ”と言っていました。小学校に行っても。でも、その時代、田舎は残酷でした。“アチシ”と言うから、ついたあだ名がね「女のなりかけ」。小学校時代、ずっと「なりかけ」でした。
──いじめのような感じだった?
いじめっていうか、もう変な男の子がいるんだなって。でも女の子たちの方がきつかったですね。学校に番長がいたんだけど、友達になっていました。「あの子たちがいじめる」って言うと、番長は「こら!平原(※麻紀さんの名字)に構うな!」って言ってくれました。その頃から(処世術を)持ってましたね。
隣に置屋さんがあって、芸者さんがいました。お祭りの日だけはお化粧して良いから、白塗りにしてもらって。みんな女だと思っていました。その日だけはできたんですよ。同級生が「おう!平原」なんて話しかけてくるんだけど、祭りのチンピラなんかは「あれ男か?男か?」なんて(驚いちゃって)。
──祭りの日は楽しみだった?
楽しみでしたよ。だって堂々とできるんですもの。だから小学校のときは友達も結構いましたけど、男の子より、大体女の子と遊んでいました。
──“自分は周りの男の子とちょっと違う”という感じはありましたか?
ありましたよ。小学校の時も好きな同級生(の男の子)いましたから。ラブレターを送ったぐらいですね。「何で来たんだよ」って向こうは思ってるでしょうね。
■「私はこれになりたい」 ゲイボーイとの出会い
中学校に入った頃、浜村美智子さんの「バナナボート」という曲がヒットしていました。掃除中、教壇のうえで踊り出すと、当時の名前は「徹男」だったんだけど、同級生みんなが「てっこ、てっこ」と呼んでいました。徹男、とはみんなあまり言わなかったですね。
──その後、美輪明宏(※当時は丸山明宏)さんも「メケ・メケ」で人気となりました
びっくりしましたよ、「私と同じ人がいるんだ」って。私は自分だけだと思っていたんですよ。「なんで男が好きなんだろう、なんで男の子にときめくんだろう」って。中学2年生くらいだったけど、私は「メケ・メケ」とみんなに言われていましたけど、全然嫌じゃなかった。
──ちょっと安心したところもありましたか?
姉が本を好きだったのでいっぱいありました。その中に、三島由紀夫さんの「禁色」という本があった。それを読んで、「こういう世界があるんだ」「あたしだけじゃないんだ」って。
その頃ちょうどね、昭和30年すぎくらいかな、日劇で「メケメケ・よろめけ」というのをやったんです。そこでゲイボーイがいっぱい出てきたんです。私はこれになりたいんだわ、って思いました。
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「1本100円のホルモン注射 胸を“もっと大きくしたい”相談すると…」に続く