戦地赴く前に故郷の空で落とした恩師への手紙「先生…」"通信筒"県内初確認
戦時中に飛行機から地上へ投下された通信筒が県内で初めて確認されました。通信筒には、飛行兵が故郷への思いをつづった手紙が入っていました。
■髙谷和生さん
「飛行機と部隊間の連絡用に、実は戦地で使うもの」
しかしこの通信筒は、現在の隈庄小学校の前身となる隈庄尋常高等小学校を目標に飛行機が投下したと伝えられていました。なぜ学校に落とされたのか。中に入っていた手紙がその訳を解き明かします。
(通信等の中に入っていた手紙)
『先生 御元気ですか。今日 私は鹿児島へゆく途中一寸 故郷の上へと飛んで参りました。空から始めて見る故郷は実に美しいのです。特に隈庄校はすばらしいものです。隈庄校の皆様によろしく。伊津野重雄 高木正明様』
通信筒の表面には「この通信筒を拾った者は学校に届け出るように」という内容のタイプ文字の文が貼られています。この通信筒は、隈庄尋常高等小学校の教員だった高木正明さんに届き、息子の正嗣さん、孫の正司さんと受け継がれてきました。
■高木正司さん
「私の祖父が学校の先生をしていまして、その時に隈庄小学校の校舎の校庭に落ちてきたと聞きました。これは大事なものじゃないかとそのまま保存していました。手紙を落とされた方の心情がしみじみと。5行くらいの手紙ですけどじーんときました」
そして手紙を書いた伊津野重雄さんは、伊津野和也さんの伯父・伊津野重男さんではないかと見られています。戦時中、伊津野さんの家は学校のすぐ近くにあり、和也さんは伯父の重男さんが飛行兵だったと聞いていました。
■伊津野和也さん
「うちの父から『兄貴が3人戦死している』との話は聞いています。ほとんど何も聞いていない。ただ『戦死した』というだけしか聞いてなかった。新たな一面。伯父に関しては全く分からない状態だったのがきょうお話を聞いてどういう思いだったんだろうと興味はあります」
(手紙について)「その思いというのは今の僕たちが考えられるようなそういう思いじゃなくて、いろんな覚悟があって、たぶん高木先生に対しての思いを残したかった伯父の気持ちが強かったのではないかと思う」
重男さんの戸籍には、1917(大正6)年生まれで1938(昭和13)年に中国の河南省開封飛行場の西、約1キロで戦死したと記録されています。また「濱松塚田部隊」から戦死が報告されたと記されていました。
所沢陸軍飛行学校の少年飛行兵操縦科 第2期生の名簿には「伊津野重男」という名前があり、当時の重男さんの年齢とも矛盾しないということです。これらのことからくまもと戦跡ネットワークの髙谷和生さんは、重男さんの所属は陸軍重爆撃機隊で「所属する部隊が上海まで渡るために鹿児島まで移動することになり、その途中で事前に準備した通信筒と手紙を上空から投下したものではないか」とみています。
髙谷さんは重男さんの甥の和也さんに、県への問い合わせなどで軍歴などの情報を集めてもらうよう依頼しました。
■伊津野和也さん
「伯父に関しての資料をそろえて皆さんに協力できればと思う」
また髙谷さんによりますと、通信筒が九州本土で見つかったのは初めてで貴重な戦争資料だということです。
■髙谷和生さん
「日本国内も含めてあまり数があるものではないと思います。できるだけ公開し、子どもたちにも知ってもらって80年前の戦争と今のウクライナ戦争を重ねてこんな時代があったんだ。今の平和の時代が大切なんだと考えていただけるような生の資料として、地元に末永く残していただければと思う」
通信筒は、隈庄小学校の150年史をまとめる過程でその存在が明らかになりました。悲惨な戦争を知る故郷の資料として、次の世代に引き継がれます。
■隈庄小学校創立150周年記念企画実行委員長 岩村匡さん
「ふるさとへの思いというかそれが胸につまされるような気持ちになりました。故郷の大切さとか戦争に対する思いとかそういったものを子どもたちに残していければなと思っています」
また髙谷さんはこの夏、玉名市立歴史博物館「こころピア」で通信筒と手紙を紹介する予定です。