「紙の爆弾」空からまかれたビラの記憶 変わらない平和への思い
8月15日は79回目の終戦記念日です。子どもの頃天草で戦争を経験した84歳の男性は戦禍の中、空からまかれたあるビラが今も記憶に刻まれています。
■井上善徳さん
「(外で山を指さして)頭だけ見える帽子岳からこっちにいつも飛行機が飛んできていた」
天草市に住む井上善徳さん(84)。幼い頃を軍国主義の中で過ごしました。
■井上善徳さん
「大きくなったら兵隊さんになって日本のために働くがんばる。今でも私の心の中に残っている」
1941年に始まった太平洋戦争。終戦近くになると九州でも空襲が増え、井上さんが住む天草地域も爆撃に襲われるようになりました。自宅の敷地には戦争の爪あとが残ります。
■井上善徳さん
「ここが入り口、中が掘ってあって出口がこっち。石が違う。これが出口」
ここには奥行き2メートルほどの防空壕がありました。
■井上善徳さん
「何回か入ったことがある。B29(戦闘機)がよく通っていた。ときどき(防空壕に)入っていた」
戦時中のことを忘れないよう書き留めた絵も。空襲の標的から逃れるため明かりを隠した電球。そしてある資料を見せてくれました。
■井上善徳さん
「これが俺が拾った(ものと同じ)」
「伝単」。アメリカ軍の飛行機からまかれた宣伝ビラです。
■井上善徳さん
「アメリカとロシアが握手している足元が日本地図。日本をまたいで握手しているそこまでは子どもながらに分かった」
伝単は「紙の爆弾」とも呼ばれます。目的の一つは敵の戦意喪失。中には空襲の予告もあります。
アメリカ公文書館所蔵の資料によると太平洋戦争中、50万枚以上の伝単が県内に投下されました。
■天草市文化課・松本博幸さん
「伝単は当時国から強い指令が出ていて、伝単を拾ったらすぐに役所や軍部に回収して届けなさいと中身は見てはいけないとなっていた。日本軍も内容に非常に警戒していたということがよくわかる」
(山を指さし)「戦闘機はいつもこう飛んでいた。ビラをまいた(戦闘機)は山の向こうから向こうに飛んでいったと思う。風で何十枚かこっち飛んできた。この付近で何枚かひろったのを覚えている」
井上さんは自宅のすぐ近くで友人と一緒に伝単を手にしました。
■井上善徳さん
Qその意味は分かっていた?
「まだ6歳だから内容も(わからない)。ただ握手していることだけ覚えている。内容はわからない」
伝単を見た大人は…。
■井上善徳さん
「伝単を拾った人が何人かいて目ん玉に針でチクチク刺していた。これはひょっとすれば日本はどうなるのだろうと子どもながらに思った」
井上さんが拾った伝単は学校や役場で回収されたといいます。
■井上善徳さん
「今の世の中ならば大多数が(戦争に)反対そのときは嫌とは言えない。『はい』と言わなければ非国民だった」
あの日から79年。井上さんが今、伝えたいこととは…
■井上善徳さん
「絶対戦争はだめ若い人にはそういうこと(戦争)があったということを一通り知ってもらえればそういうことは出来ないなと(思ってもらえる)」
戦争の記憶を今に伝える1枚の紙。井上さんの平和への願いはあの日から79年経った今も変わることはありません。
【スタジオ】
天草市立本渡歴史民俗資料館では、アメリカ軍の飛行機からまかれた宣伝ビラ「伝単」などの展示が9月1日まで行われているということです。
【本渡歴史民俗資料館(天草市)】
「紙の爆弾:伝単と天草の軍人像」
■9月1日(日)まで
■開館時間 8:30~17:15
■休館日:毎週月曜
■入場無料