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「過去を知る 未来に伝える」 80年前の宮崎空港

2025年1月30日 20:25
「過去を知る 未来に伝える」 80年前の宮崎空港
テレビ宮崎
今年は戦後80年、UMKでは「過去を知る未来に伝える」をテーマに終戦企画を放送します。

30日は、去年10月、戦時中に投下されたと見られるアメリカ製の250キロ爆弾が爆発した宮崎空港から戦争を考えます。

こちらにあるのは太平洋戦争中に使われたアメリカ製の一般的な250キロ爆弾のパネルです。
長さ約150センチ、幅約30センチの爆弾なんですが、これが空から降ってくると考えると恐ろしいですよね。
80年前の宮崎空港は、こうした爆弾が降ってくる戦場でした。

去年10月、滑走路につながる誘導路で、戦時中に投下されたと見られるアメリカ製の250キロ爆弾が爆発した宮崎空港。
この爆発で、誘導路には直径約7メートル、深さ約1メートルの穴が開き、爆弾やコンクリートの破片などが半径約200メートルの範囲に飛び散りました。

宮崎市に住む郷土戦史研究家の稲田哲也さんは、映像から「今回の爆発は不完全爆発だった」と推察しています。

(南九州文化研究会 稲田哲也さん)
「現場に黄色い粉が散乱していた。あれを見た瞬間、炸薬(火薬)だなと思った。火薬が燃え切らずに散乱しているということは不完全な爆発だった。(本来であれば)10m~20mの大きな穴が開いて、深さも2~5mの大きなクレータができる」

現在は全国からの観光客が降り立つ南国情緒あふれる宮崎空港。
その歴史は82年前、大型機パイロット育成のための修練場「海軍航空隊宮崎基地」として始まりました。

しかし太平洋戦争が激化し戦場が徐々に沖縄に近づくにつれ、宮崎基地も敵の戦艦などを攻撃する戦闘機が飛び立つ「前線基地」へと変化していきます。

そして1945年3月18日。
宮崎基地はアメリカ軍から空襲を受けます。
県内で初めての空襲でした。

(南九州文化研究会 稲田哲也さん)
「(米軍の)沖縄上陸前の3月は、九州各地の日本の陸海軍の航空基地をせん滅するための空襲にアメリカ空軍は動いている」

基地の近くに設置されていた本郷砲台からこの日の空襲を目撃した海軍兵・川越質さんが残した戦闘の記録には、その恐ろしさが記されています。

「グラマン約40~50機、双眼鏡で見るまでもなく肉眼で、雲雀の群れ遊ぶが如くハツキリ見える」
「敵も激しく反復攻撃を繰り返す。我が方の損害も甚大、航空隊の格納庫も兵舎も焼土と化す」

また、この頃の宮崎基地は特攻隊の出撃基地でもあり、3月21日以降、44機が沖縄周辺のアメリカ艦隊に向けて出撃。
131人が命を落としました。
稲田さんによると、宮崎基地は3月から5月にかけて、9回の空襲を受け約3100発の爆弾が落とされたということです。

(早瀬純哉記者)
「現在午後10時40分です。あちらが不発弾が爆発した箇所なんですが、このあとすぐ近くで作業員による探査が行われます」

国土交通省は、不発弾の爆発を受けて現在も空港全域の磁気探査を行っています。
しかし、予想より多くの場所で埋設物の反応があったため現在も解析が終わっていない状況です。

(南九州文化研究会 稲田哲也さん)
「宮崎空港、旧海軍宮崎航空基地という歴史を考えると、まだまだたくさんの爆弾が埋まっている可能性がある。特攻隊は連日出る、B29も連日飛んできて爆弾を落とす、(宮崎空港は)すさまじい戦場」

終戦から80年の歳月が流れましたが、稲田さんは、今回の不発弾の爆発は、今を生きる私たちへの警鐘だったのではないかと感じています。

(南九州文化研究会 稲田哲也さん)
「『忘れるんじゃないぞ、戦争があったんだよ。今後も起きる可能性があるんだよ。しっかり生きろ』と言われているのかなと思う」
最終更新日:2025年1月30日 20:35
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