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生々しい言葉描く未曽有の危機「吉田調書」

2014年9月11日 19:00
生々しい言葉描く未曽有の危機「吉田調書」

 福島第一原発事故に関する政府の事故調査委員会が当時の吉田昌郎所長に聴取した記録、いわゆる「吉田調書」が11日、公開された。

 「調書」は事故を検証する上で第1級の資料とされていたが、その内容は吉田元所長本人の意向で公開されていなかった。しかし、吉田元所長が去年、亡くなった後内容について様々な報道が飛び交ったことから、政府は混乱を回避するためとして遺族の意向を確認した上で公開に踏み切った。

 3年半前、津波により全ての電源を失われた福島第一原発。水素爆発や核燃料が溶けだすなど、危機的状況に追い込まれた。その現場で8か月にわたって指揮を執ったのが、去年7月に亡くなった吉田昌郎元所長だ。現場の指揮官が事故当時、何をし、何を考えて対応にあたったのかが記された「吉田調書」。政府の事故調査・検証委員会が吉田元所長からのべ28時間にわたって聴取した404枚にも及ぶ資料に記されていたのは、事故直後の生々しい危機だった。

 2011年3月11日、福島第一原発。激しい揺れが収まると、想定していなかった事態が原発を襲った。

 運転員セリフ「1号機、SBO。SBOです。全電源喪失」

 「ステーションブラックアウト(SBO)」。津波により、全ての電源が失われたのだ。調書には、こう記されている。

 「はっきり言って、まいってしまっていたんですね。これは大変なことになったと」

 電源がなければ原子炉の冷却ができなくなり、核燃料が溶ける
「メルトダウン」につながる。

 そして、震災翌日の2011年3月12日午後3時36分に水素爆発した1号機。この時を振り返り、吉田元所長はこんな言葉を口にしていた。

 「(建屋に)水素、酸素がたまるというところに思いが至っていない。原子力屋の盲点、ものすごい大きな盲点」

 さらなる危機を食い止めようと、吉田所長らは様々な手段で原子炉の冷却を試みる。その一つが過去に例のない海水の注入だった。

 「マニュアルもありませんから、極端なこと、私の勘といったらおかしいんですけれども、判断でやる話」

 しかし、海水を注入すると原子炉がさびて再び使うことができなくなる。さらに「首相官邸の了解が取れていない」として、東電幹部は海水注入の中断を求めた。ところが、吉田元所長は独断で海水注入を続けたのだ。

 「ここ(テレビ会議)で中止をすると言うけれども、ちょっと寄っていって絶対に中止してはだめだという指示をして、それで本店には『中止した』という報告をしたということです」

 テレビ会議の映像を検証すると、担当者に歩み寄り、耳打ちをする吉田元所長の様子が映されていた。

 一方、指揮命令系統は混乱。本店とのやり取りについてこんな発言も…。

 「雑音です。全部雑音です。私にとってはですね」「途中で頭にきて、うるさい、黙っていろと、何回も言った覚えがありますけれども」「本店にしても、どこにしても、実質的な、効果的なレスキューが何もないという、ものすごい恨みつらみが残っていますから」

 思うように作業が進まない中、いらだちを募らせていた吉田元所長。

 そして、2011年3月14日午前11時1分、3号機が水素爆発。テレビ会議の映像には、慌てた様子が残されている。この時、吉田元所長の心中は…。

 「最初、現場から上がってきたのは、40何人行方不明という話が入ってきた。私、そのとき死のうと思いました。40何人亡くなっているんだとすると、そこで腹切ろうと思っていました」

 しかし、危機はその後も続いた。2号機で核燃料が露出。このままでは格納容器が壊れるという最悪の事態に至る可能性が
高まっていたのだ。

 「本当にここだけは一番思い出したくないところです。ここで本当に死んだと思ったんです」「燃料が全部外に出てしまう。放射性物質が全部出てまき散らしてしまうわけですから、我々のイメージは東日本壊滅です」

 生々しく語られた、現場の危機感。結局、格納容器が壊れるという最悪の事態は免れたものの、調書からは想定を超えた事態への対応にもろさと危うさがうかがえる。

 「3つ暴れているものがあって、いろんな情報を判断しないといけないときに、もうわからなくなってしまうんですね」「本当に髪の毛一筋の幸運みたいなところで、今に至っている部分があります」

 公開された吉田調書。そこから浮かび上がったのは現場の指揮官自ら「幸運だった」と語るほどギリギリの事故対応だった。