被爆体験者訴訟「私たちは被爆者だ」判決は9月9日 広島と同じような解決を原告団は期待《長崎》
国が定める地域の外で原爆にあった「被爆体験者」について、こちらの地図をご覧ください。
赤は国が定めた「被爆地域」、そしてピンクは、一定の病気にかかれば被爆者として認められる地域です。
対して、爆心地からおおむね半径12キロ以内の黄色の地域は「被爆体験者」の地域です。
被爆者には被爆者健康手帳が交付され、医療費は全額給付されます。
一定の条件はあるものの、手当ての支給もあります。
一方、被爆体験者に交付されるのは精神医療受給者証です。
医療費助成は、精神疾患とそれに関連するものに限られ、去年から “がんの一部” も対象となりましたが、すべてのがんが対象の被爆者とは大きな差があります。
「私たちは被爆体験者ではなく被爆者だ」
そう訴え続けてきた裁判の判決が、9月9日に言い渡されます。
原告の思いです。
▼「被爆者と認めて!。小さな小さな運動でも希望を持っている」
今月1日、長崎市の繁華街。
被爆体験者の岩永 千代子さん 88歳。
被爆者としての認定を求める裁判の原告団長を務めています。
(原告団長 岩永千代子さん)
「私たちは9月9日の判決をまもなく迎える。内部被ばくを知ってほしい」
原告44人のうち4人が亡くなり、平均年齢は85歳近くに…。
この日、街頭活動に参加できた原告は わずか2人。
平和活動を行う高校生たちに手伝ってもらい、道行く人に支援を呼びかけました。
(原告団長 岩永千代子さん)
「一人ひとりがビラを配ったり、話をしたり。小さな小さな小さな運動でも連帯していくことは広がっていくと思うので、希望を持っている」
不合理な線引きをなくし、被爆者と認めてほしい。
岩永さんらが最初に裁判を起こしたのは、2007年でした。
しかし、訴えは届かず、2017年に最高裁で敗訴が確定。
(原告団長 岩永千代子さん)
「真実であると。歴史的事実であると。被爆者だと、被爆体験者ではないということを最後まで言い続けたい。私は負けません」
それでもあきらめきれず、翌年 再び提訴。
その裁判は9日、判決を迎えます。
▼原爆が落ちたあと、灰がいっぱい降っている「毒だと知らなかった」
裁判を続ける原告の一人、濵田 武男さん 84歳。
手にするのは「被爆体験者精神医療受給者証」。
被爆者ではないことをつきつけられる手帳です。
(原告 濵田 武男さん)
「歯がゆい、悔しい。自分たちは体験したんじゃないよと」
今から79年前の8月9日。濵田さんが 5歳の時でした。
(原告 濵田 武男さん)
「飛行機の音が聞こえて、そうかと思ったらピカ―ッとして、ドンという音が来て。ピカドンで」
自宅は 爆心地から約8.5キロ。
近くの水汲み場には…
(原告 濵田 武男さん)
「原爆が落ちたときには、灰がいっぱい降っている。(水に浮いた灰を)端っこに寄せて、ないところに柄杓を入れて(水を汲んだ)。毒だとかは知らない。体に悪いのを飲んでいた。知らないから。だからみんな、後で何十年もしてから病気に」
皮膚がんに、慢性的な高血圧、新たな病気への不安、そして薬も手放せない毎日です。
(原告 濵田 武男さん)
「私たちを見捨ててはいないと信じたい」
(原告 濵田 武男さん)
「もう命がない。先がありません」
裁判や集会はもちろん、長崎市や国などへの要望活動にも毎回のように参加し、救済を訴えてきました。
もう一つの被爆地・広島では、おととしから従来の被爆地域の外で黒い雨にあった人たちにも、被爆者健康手帳が交付されるように。
しかし 長崎は対象外とされ、先が見通せない中で、自身の体調も悪化。
ここ半年ほど、ほとんど活動に参加できずにいます。
(原告 濵田 武男さん)
「解決しないで引き延ばされるのは、まいってしまう。悔しいね」
▼総理との面会が実現「絶対に明るい方向に進展していくのでは」
一方で、一筋の希望も…。
先月9日の長崎原爆の日。
被爆体験者の団体による総理との面会が初めて実現しました。
(原告団長 岩永千代子さん)
「広島の “黒い雨体験者” を被爆者と認め、すでに手帳を交付している。同じような状況の私たちを認めていないのは、これは差別です。
総理に申し上げます。私たちは被爆者ではないのでしょうか」
岩永さんは、雨や灰などを浴びて病気に苦しんだ被爆体験者の絵を示しながら、一刻も早い救済を訴えました。
(岸田首相)
「早急に課題を合理的に解決できるよう、厚生労働大臣において長崎県 長崎市を含め、具体的な対応策を調整するよう指示する」
(原告団長 岩永千代子さん)
「私たちの目の前で指示をしたのはうそではないので、絶対に明るい方向に進展していくんじゃないか」
この場に立ち会うことができなかった濵田さんも…。
(原告 濵田 武男さん)
「そん時はね、これで大丈夫なんだと。やっぱり期待した」
“被爆者” として認めるという裁判長の言葉を、自らの耳で聞きたい。
濵田さんは、9日は裁判所に出向く予定です。
(原告 濵田 武男さん)
「だんだん行けない人が多くなってきているから、早くいい判決が出てほしい。広島同様に認めてくれると、大いな期待をしている」
(佐藤肖嗣アナウンサー)
ここからは裁判で何が争われているのか、被爆体験者問題の取材を続けている 加藤記者とみていきます。
(加藤小夜 記者)
今回の裁判では、被爆体験者の原告たちは “被爆者” として認定を求めています。
ですから最大の争点は、被爆者援護法に規定された『原爆放射能の影響を受ける事情の下にあった者』に当たるかどうかで これが認められれば、“被爆者” だということになります。
(佐藤アナウンサー)
『原爆放射能の影響を受ける事情の下』というのは、とても抽象的な文言ですね。
(加藤 記者)
この点について、広島の黒い雨を巡る裁判でも争われました。
国側は『科学的根拠が必要』などと主張していましたが、広島高裁は『原爆の放射線による健康被害が否定できない』ことを立証すれば足りるとしました。
そのうえで黒い雨に打たれるほか、水を飲んだり、野菜を食べたりして体内に放射性物質を取り込んで『内部被ばく』が起こり、それによって健康被害を受けた “可能性” を認めたのです。
『疑わしきは救済を』という原告に寄り添った画期的な判決でした。
(桒畑笑莉奈アナウンサー)
長崎では “雨” は、どうだったのでしょうか。
(加藤 記者)
長崎でも雨が降ったという証言も多数あり、私も直接体験した方からお話を聞いたこともありますが、雨以外に灰や塵などが降ったと、多くの人が証言しています。
長崎の原告たちは、雨であれ、灰やちりであれ、放射性物質を含んでいることには変わりがないとして、自分たちが苦しんできた病気は原爆による『内部被ばく』によるものだから広島と同じように認めてほしいと主張しています。
(佐藤アナウンサー)
どのような判決に期待しますか。
(加藤 記者)
これまで話を聞いてきた被爆体験者の人たちの証言は、とても鮮明で「事実を事実として認めてほしい」と口々に話していました。
広島と同じような判決が出ることを期待します。
国も、広島高裁の判決について上告せずに受け入れていますし、岸田総理もこの長崎で “解決” という言葉を口にしたわけですから、高齢化した被爆体験者のためにも、一刻も早い政治解決が求められていると思います。