国民と触れ合う機会ーー天皇皇后両陛下の「4大行幸啓」【皇室 a Moment】
◾️天皇皇后両陛下 佐賀県の「国民スポーツ大会」へ
一つの瞬間から知られざる皇室の実像に迫る「皇室 a Moment」。今回はこちらです。
――井上さん、式典に臨まれている天皇皇后両陛下ですね。
はい。10月5日、佐賀県で開催された「国民スポーツ大会」の総合開会式です。
大会は、長く「国民体育大会(国体)」という名称でしたが、78回目の今年、開催規模などを見直し、「国民スポーツ大会」になりました。見直しは今も検討されています。開会式で天皇陛下は次のように述べられました。
両陛下はこの「国民スポーツ大会」以外にも、秋は地方への訪問が続きました。10月に岐阜県で行われた「国民文化祭」、そして11月に大分県で開催された「全国豊かな海づくり大会」に臨まれています。
――確かに地方へのお出かけが続きましたね。
さらに春は「全国植樹祭」があり、両陛下の定例の地方訪問は「4大行幸啓」と呼ばれています。コロナ禍で中止となった年もありましたが、両陛下はリモートでの出席を模索し、国民と同じ目的で集う機会を大事にされてきました。それぞれの行事の歴史や変遷をたどると、両陛下の定例の出席の意味が見えてきます。
――今日は、両陛下のいわゆる「4大行幸啓」にスポットを当てます。
◾️天皇皇后両陛下と「4大行幸啓」
まず、こちらの表をご覧下さい。天皇皇后が出席する定例の地方行事、いわゆる「行幸啓」を、戦後の昭和、平成、令和で見た表です。昭和天皇は「国民スポーツ大会」に名前が変わった「国民体育大会」と「全国植樹祭」の2つでしたが、平成になって「全国豊かな海づくり大会」が加わって3つになり、令和になって、同時開催となった「国民文化祭」「全国障害者芸術・文化祭」が加わりました。行事が1つずつ増えていった背景には、平成、令和の天皇陛下それぞれに皇太子時代からその行事に出席し、育ててきたという思いがあるようです。1つずつ見ていきたいと思います。
◾️愛子さまも初の単独地方公務として出席した「国民スポーツ大会」
最初に、「国民スポーツ大会」です。今年の大会は佐賀県で行われ、両陛下は10月5日の総合開会式に続いて、翌日はバレーボール競技を観戦されました。
翌週には長女の愛子さまも「国民スポーツ大会」のために佐賀県入りされました。初日は陸上競技を、2日目には柔道競技を観戦されています。
――愛子さまの佐賀県訪問は大きなニュースになりましたし“愛子さまフィーバー”と言っていいほど盛り上がりましたよね。
はい。お一人での地方公務は初めてということもあって、沿道にはたくさんの人が集まり、熱気に包まれました。
総合閉会式には秋篠宮家の佳子さまが出席し、開催中は寬仁親王妃の信子さま、彬子さま、瑶子さま、高円宮妃の久子さま、長女の承子さまも現地入りし、各種競技を観戦されました。
――皆さまが続々と佐賀入りして、皇室として後押しされているんですね。
はい。「国民スポーツ大会」の前身は「国民体育大会(国体)」です。昭和天皇の正式な出席は1949(昭和24)年の「第4回大会」からですが、最初の大会は、終戦の翌年、1946(昭和21)年、戦災を免れた京都などを会場に開かれました。
第4回以降はお出かけが定例化し、こちらは25年後の茨城県での大会の様子です。ちなみに、1947年、昭和天皇は石川県で「第2回大会」が開かれた時にちょうど石川県を訪問中で、“非公式”に開会式に臨み、野球を観戦しています。
――非公式だったんですね。
◾️荒廃した国土に緑を…昭和天皇が出席した「全国植樹祭」
――そして、昭和天皇から受け継がれているもう1つの行事が「全国植樹祭」ですね?
はい。「全国植樹祭」は天皇皇后両陛下が出席され、記念植樹の「お手植え」や木の種をまく「お手まき」が行われ、緑化功労者が表彰されます。
こちらは1956年に開かれた第7回の「植樹祭」の様子ですが、元をたどると終戦から2年後の1947年、戦前の“緑化行事”を受け継ぐ形で「愛林日(あいりんび)記念植樹行事」――“木々を愛する行事”として行われ、中学生だった上皇さまが参加してヒノキを植樹し、翌48年から、昭和天皇と香淳皇后が植樹行事に出席するようになり、今の植樹祭の形になっていきます。
――本当に何もない場所で行われていますね。
本当に“はげ山”ですね。
――この植樹祭も戦後すぐに始まったんですね。
――「戦争」と「山林の荒廃」にどういうつながりがあるのですか。
先の大戦で日本は、石油などの資源が乏しいために、松の根から採った油=松根油(しょうこんゆ)=で代用しようとし、また、いよいよ金属がなくなると船の建造などに使うために各地で木を切って、山野は“はげ山”になっていきました。その結果、山は保水能力を失って、終戦後、大きな台風が来るたびに土石流などで多くの死者が出て、国土の緑化が急務になりました。
――だからこそ木を植えて国土を復興させ、防災にも役立てていこうということになったんですね。
そうです。緑化に関してはその後、「全国育樹祭」も始まります。
こちらは、今年10月に秋篠宮ご夫妻を迎えて福井県で開かれた「全国育樹祭」の様子です。「育樹祭」は、かつて天皇が植樹した木に、皇太子や皇嗣が肥料をやり、枝打ちをして育てる行事です。秋篠宮ご夫妻は激しい雨の中、15年前の2009(平成21)年に上皇ご夫妻が植えたアカマツの枝打ちをされました。1977(昭和52)年に始まり、皇太子時代の上皇さま、そして今の天皇陛下、秋篠宮さまに引き継がれました。「植樹祭」と「育樹祭」は“対”の行事です。
――「植樹祭」はよく耳にしていたんですが、「育樹祭」もあるんですね。
植えた後に育てる、という行事です。
◾️海を育てる「海づくり大会」と上皇さまの強い思い
――そして、3つ目が「全国豊かな海づくり大会」ですね。
「全国豊かな海づくり大会」は11月、第43回大会が大分県で開催され、両陛下は地元特産のマコガレイの稚魚などを放流されました。この大会は上皇さまから今の両陛下に引き継がれたものです。最初の大会が開かれたのもこの大分県でした。1981(昭和56)年、海の環境を守り漁業の振興を図るために始まり、皇太子時代の上皇さまはご夫妻で第1回大会から出席されてきました。平成になり、天皇皇后となってからも出席を続けられましたが、魚類学者でもある上皇さまの強い思いがそこにはありました。陸地に木を植えて育てる「植樹祭」と、海や川、水産資源を育てる「海づくり大会」を“対”としてとらえられていたからです。
――陸と海とが密接につながっているとご存じだからこそ、ということなんでしょうか。
陸の資源を育てるように、海の資源も育てるということだったんですね。
平成までは、「国体」「植樹祭」、そしてこの「海づくり大会」の3つが「3大行幸啓」と呼ばれていました。そこに令和になって、「国民文化祭」と「全国障害者芸術・文化祭」が加わりました。
◾️浩宮時代から出席してきた「国民文化祭」
今の天皇陛下は、浩宮時代の1986(昭和61)年、「国民文化祭」の第1回大会から毎年のように出席されてきました。皇太子時代、そして即位後も、そのまま出席されているのは陛下の強い思いがあるからだそうです。
2017(平成29)年、「国民文化祭」と「障害者芸術・文化祭」が同時に開催されるようになり、ことし両陛下は、障害者のアート作品の展覧会などを訪ね、作者らと交流されました。こうした地方へのお出かけでは、施設や学校などを訪ね、関係者に直接会って、触れ合われるのが基本です。目を合わせ、じっと話を聞き、気持ちを寄せられる場面が印象に残ります。両陛下が“国民の中に入っていく”貴重な機会が「4大行幸啓」と言えるとも思います。
◾️ “4大行幸啓”の出発点となった「戦後巡幸」
――こういった訪問だったり、最近では被災地を訪問される姿をよく目にしますが、国民との触れ合いというのは戦前はなかったんでしょうか?
戦前、天皇の公的な地方訪問は陸海軍の演習などに限られていました。国民の暮らしぶりの視察はありましたが、「植樹祭」など、同じ目的で国民と一つの場に集うということはなかったんですね。
また「植樹祭」もきっかけは「戦後巡幸」と大きく関わっています。実は、昭和天皇は戦前、植樹をしませんでした。
――そうなんですか? 何か理由があったんですか?
自分が植えた木が枯れた時、管理者が責任を問われることがあったそうで、「人を苦しめるために植えているようなことになる」と控えたのです。その自らの“禁”を破って植樹したのが、1947(昭和22)年、「戦後巡幸」で訪れた富山県でのことでした。
こちらは私が3年前、富山を取材した時の写真です。昭和天皇が植樹した立山杉が大きく育ち、今も地域の人たちに大切に守られている様子です。
――大きく立派に育ってますね。
当時の侍従長が「天皇は各地で緑化を奨励しているのだから、陛下が植樹される効果は大きい」と考え、富山で急きょ植樹を実現させ、これがもとで恒例化していきます。
――「国体」も「植樹祭」も「戦後巡幸」と密接に関わっているんですね。
そうなんですね。とても興味深いと思います。
◾️多くの国民と触れ合う機会ーー「4大行幸啓」の意義
ただ時代とともに行事の意義も変化していくものだと思います。先ほども紹介した第1回の写真ですが、会場は土がむき出しの“はげ山”です。そこからは“植樹”の意義や願いが強く感じられます。
――たしかにこれだけ何もない山だと植樹の意義が感じられますね。
一方、今年の植樹祭の式典会場は体育館でした。今は各地で緑化が進んだためでしょうか、体育館の壇上での植樹がいささか形式的にも感じられ、行事本来の意義について考えさせられました。
また、令和になって「4大行幸啓」は“1泊2日”が基本的なスタイルとなりました。体調に波がある皇后さまへの配慮とみられますが、天皇皇后両陛下が“国民の中へ入っていく”貴重な機会ですので、いずれは日程を長くして、より多くの人たちと触れ合われてほしいと願っています。
――両陛下の4つの行事には、それぞれに歴史と深い関わりがあることが分かりましたし、なぜそもそも始まったのかということを知ると、今行われている行事の見え方が変わってくるなと感じました。
【井上茂男(いのうえ・しげお)】
日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)