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【皇室コラム】鴨場のデート秘話――「一個人」として同行していた護衛官

2023年6月15日 12:00
【皇室コラム】鴨場のデート秘話――「一個人」として同行していた護衛官
千葉県の鴨場へ陛下を運んだ軽ワゴン車(写真提供:読売新聞社、取材:井上茂男)

天皇陛下が雅子さまにプロポーズをされた〝鴨場のデート〟に、「一個人」として同行していた皇宮護衛官がいました。宮内庁の幹部から「嫌ならいいのですが…」と“隠密作戦”を打ち明けられ、「構いません」と密かに同行していました。ご結婚30年を迎えた6月9日、テレビで当時の映像を見ながら、米寿を迎えるその人の気概を思いました。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)

■前代未聞 「警備なし」の“隠密作戦”

1992(平成4)年10月3日、土曜日の昼前。宮内庁職員が運転するあずき色の軽ワゴン車が、東京・港区の赤坂御用地の巽門から静かに滑り出ました。運転する職員は、皇太子時代の陛下の身の回りのお世話をする「内舎人(うどねり)」。後部の窓は黒い目隠しフィルムで覆われ、後部座席には皇太子時代の陛下が布をかぶって潜まれていました。ワゴン車は首都高速に入って千葉県市川市にある宮内庁の新浜鴨場を目指します。有名な“鴨場のデート”です。

鴨場では外務省職員だった雅子さまが待っていました。そこは国内外の賓客を接遇する野鳥の生息地。お2人は、山下和夫東宮侍従長が用意した粽(ちまき)のすしを一緒にとり、広い池の周りを散策したり、輪投げをしたりして過ごしました。その場にいたのは元外務事務次官の柳谷謙介氏や山下侍従長らごく少数。木造の古い建物の中から見守っていました。

その先のことは、陛下が婚約会見で丁寧に話されています。「10月3日に千葉県の鴨場で、『私と結婚していただけますか』というようなことを申しました。その時の答えははっきりとしたものではなかったけれども、12月12日にこの仮御所に来ていただいて、そこで『私からの申し出、受けていただけますか』というふうに申しまして、それを受けていただいたというわけです」

このお出かけは、身内の皇宮警察にも警視庁や千葉県警にも内緒の〝隠密作戦〟でした。その日は、当時の天皇皇后両陛下が国体で山形県へ向かわれる日。皇太子妃取材が熱を帯びるなか、皇室記者たちの目が山形に向く隙をついて鴨場のデートは行われました。

“隠密作戦”のことは陛下自身が質問に答えて説明されています。

「以前全く警備なしで出掛けたという事は、これはございません。今回が全く初めてのことであります。ただ、私としましても、ことに雅子さんの場合、以前に非常にマスコミにも取り上げられて大変な思いをされたということもございますので、今回も会う場合には本当に極秘で、本当に知られないで会う方法というものをいろいろ考えたわけです。その結果としまして、最終的には警備を付けずに会うという、言ってみれば前代未聞のことだったかもしれませんけれども、(中略)私自身本当にこの度の雅子さんのことに関しては、本当に全力投球でと申しますか、一生かけて、本当に力を入れていたことでもありますし、警備なしという極めて無防備な状態ではあったわけですけれども、それをする価値は十分にあったという、このことに関してはそういうふうに思っています」(1993年2月の誕生日会見)

■非番に「一個人」として同行していた皇宮護衛官

このお忍びのデートに、非番の皇宮護衛官が「一個人」として同行していました。その存在に気付いたのは、当時の皇宮警察の幹部が時を経て漏らしたひと言でした。「護衛官はいなかった」――。「官は」という3音が、「護衛官はいなかったが、護衛はいた」と言っているように聞こえました。それがずっと気になっていました。

ご結婚から12年たった2005(平成17)年9月。この人ではないかと思われる旧知の元護衛官を訪ねると、「墓まで持って行くつもりだったのですが…」と言ってしばらく考え込み、「一個人として同行していました」と重い口を開きました。

1992(平成4)年7月下旬の夜。山下侍従長から赤坂御用地内の官舎に電話がかかってきたそうです。「記者はいないですか」。山下侍従長がまず気にしたのが、新聞記者が自宅へ取材に来ていないかということでした。「私の官舎まで来ていただけませんか」。護衛官は近くにある山下侍従長の元を密かに訪ねます。官舎に電話がかかってくるのも、呼び出されるのも、それまでなかったことでした。

「嫌ならいいのですが…」。山下侍従長はそう言って警察に内緒の極秘デート計画を打ち明けました。強調されたのは、第一に陛下を女性に会わせること、第二にマスコミに漏れないこと。護衛官の名前をあげて相談するように促されたのは陛下自身でした。浩宮時代から「側衛(そくえい)」と呼ばれる側近護衛を務めてきた信頼の厚い護衛官です。「内密に受けてくれ」と言われ、「構いません」と即答したそうです。

同行したデートは2回。1回目は5年ぶりの再会となった8月16日の千代田区内の柳谷謙介氏邸、2回目が10月3日、土曜日の宮内庁新浜鴨場でした。いずれも軽ワゴン車の助手席に乗り、周囲に注意を払ったそうです。

ひとり同行したその理由を尋ねると、「上にあげれば各所に連絡が回って漏れたでしょう。マスコミの皆さんに知られてしまいますから。もちろん責任を取る覚悟はしていました」と静かに話し、陛下の重大局面に役立てたことを喜んでいました。何か起きれば「一個人」で済むような話ではありません。ひとり事情を理解し、全てをのみ込んで同行した護衛官の気概を思います。

■即位の礼の後、祝杯をあげた護衛官と内舎人

このエピソードは2019年に上梓した拙著『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)の中で紹介しました。礼状を添えて本を自宅に送ったところ、「家族ともども拝読させていただきました。あらためて現職時代の出来事に思いを新たにしました」というワープロで打った丁寧な葉書が届きました。

即位の礼の直前、インタビューを改めてお願いした時は「高齢で適切な判断が出来なくなっているから」と断られてしまいましたが、しばらくして手紙を書くと、律義に返信が送られてきました。

そこには、即位の礼の後、あずき色の軽ワゴン車を運転していた内舎人から「お祝い」として清酒「惣花」一升が送られてきたことが記され、「小さい頃から結婚までお側に仕えた○○さんにすれば親同然で祝杯をあげたくなるのも解るので、同感の意を伝え、それぞれ祝杯をあげました。国民一人一人に異なるお祝いの仕方があるものですね」と、思いが綴られていました。

「惣花」は晩さん会などで使われる宮中の御用酒です。その内舎人は、東宮仮御所での極秘デートに雅子さまを3度運ぶ役目も果たしています。お酒を飲まない護衛官が御用酒の『惣花』を口に運び、2人それぞれに祝ったという話に喜びが伝わってきました。

■仲介役が挙げた陛下の「勇気」と「決断」

婚約会見の日、仲介役を務めた柳谷氏に感想を求め、読売新聞に書いたことを思い出します。柳谷氏は、陛下が雅子さまに心理的な負担をかけないよう「自分からどこへでも出掛けていく」と話されたことが始まりだったことを明かし、「皇太子さまの雅子さんに対する強い思い、温かいお気持ち、それを支えた勇気と決断、そしてそれらを真剣に全身で受け止められた雅子さんの決心、これらが経糸となり緯糸となって、このたびの慶事に至った」と話していました。

道のりは決して平坦ではありませんでした。「雅子さんではだめでしょうか」。陛下の宮内庁へのアピールは計3度。雅子さまの母方の祖父が、水俣病をめぐる訴訟中だったチッソの社長を務めていたことから宮内庁がストップをかけ、それを陛下がこじ開けられた“重い扉”です。いまはなき柳谷氏の言葉が響きます。

この間、護衛官のことが公にされることはありませんでした。陛下も言及されません。「警備なし」「無防備」の説明を通すことで、陛下はその護衛官を護ろうとされたのでしょう。陛下を乗せて車を運転する任にない内舎人も同じです。触れないことに、深い気遣いがあるように思えてなりません。

■ご一家の笑顔が何よりの贈り物

結婚30年の日。両陛下のご感想と多くの写真が公開されました。それが広く国民に向けられたものであっても、2人には何よりの贈り物だったでしょう。その日も連絡を取り合って祝杯をあげたでしょうか。もうそっとしておくべきかもしれませんが、ご結婚の陰に気概のある護衛官がいたこと、そして極秘のデートに重要な役割を果たした内舎人がいたことを、「真珠婚」を迎えられた今だからこそ伝えたいと思います。
(終)

(注)両陛下以外は当時の肩書のまま記しました。

【筆者プロフィル】井上茂男(いのうえ・しげお) 日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社会部で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご成婚などを取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として上皇ご夫妻や皇后雅子さまの病気、愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公ラクレ)。

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