×

【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第22回  <スウェーデン大使館ーー王政500周年で始まるリノベーション>

2023年6月6日 17:00
【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第22回  <スウェーデン大使館ーー王政500周年で始まるリノベーション>
大使館の壁にサインするヘーグベリ大使(井上撮影)

北欧の国スウェーデンが6月6日、王政が始まって500周年の節目を迎えました。9月にはカール16 世グスタフ国王の即位50周年と慶事が続きます。その節目の年に、日本の文化との融合という思いを込めた東京の大使館がリノベーションされることになり、大使公邸の一部が公開されました。ペールエリック・ヘーグベリ大使にインタビューし、大使館の歴史や日本との関係を振り返ります。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)

■赤く円い外壁と城のような建物――両国の文化を融合させた大使館

東京都港区六本木1丁目。超高層ビル群の一角、緑に包まれた静かな丘の上にスウェーデン大使館はあります。近くにはスペインやアメリカの大使館、ホテルオークラ……。円柱を4分の1に切ったような円形の壁が印象的な9階建ての建物です。赤い御影石の外壁は太陽の動きに合わせてらせん状に立ち上がり、その内側に日本の城を思わせるビルが階段状に収まります。赤い塗装はスウェーデンの住宅に多い壁の色を、緑青がふいた銅葺きの屋根は日本の寺社をイメージさせます。

ユニークなフォルムは、スウェーデンと日本の建築家によって両国の文化の融合を目指して設計され、1991(平成3)年に完成しました。大使館や大使公邸、スウェーデンの商工会議所、外交官の住宅などが入っています。リノベーションは今後2~3年かけて行われ、フォルムはほぼそのままに、水回りや電気、空調設備を一新し、人と文化が集う場所の機能を拡充させて生まれ変わるそうです。

■大使インタビュー 「リノベーションを友好関係のアップグレードに」

2019(令和元)年に着任したペールエリック・ヘーグベリ大使にインタビューを申し込むと、大使は快く建物の魅力を熱く語ってくれました。

「大使館はその国の象徴であるだけでなく、気軽に来てもらえることが大事ですから、こんな好立地はありません。先人はよくこの土地を探したと思います。外壁のらせん状のラインは日の出を象徴し、日本の城にも、私たちの祖先のヴァイキングの船にも見えます。外壁の赤い御影石は夕日を浴びると美しく輝きます。赤い塗装は角度によって見える東京タワーとも色を合わせているようですし、神社の鳥居も思わせます。平和の象徴で、素晴らしい建物です。私はこの建物が大好きです。王政500周年と即位50周年の節目の年に始まるリノベーションは、単なる建物の改修に留まらず、日本とスウェーデンの友好関係のアップグレードにつなげたいと思っています」

■大使の思い 壁に書いた「日本とスウェーデン 未来へ」

大使公邸の内部が公開された6月1日。ヘーグベリ大使は取材に参加した約30人と大使館の変遷のパネル展示を見て回り、大使館の壁に「Japan/Sweden in to the future」と書いて自身の似顔絵を添えました。大使館の過去、現在、未来とつながるパネル展示を担当した演出家の小栗了さんも「スウェーデンと日本の未来へ! Ryo Oguri」と書き、2人は握手を交わしました。

続いて小栗さんプロデュースのレーザーとスモークによるオーロラショーが始まり、空間に描き出される青や緑の幻想的な広がりが極地のオーロラを思わせます。その後、レセプションなどに使われる大使公邸の大広間や、公式晩さんのテーブルセット、太鼓橋がかかる公邸の庭などが披露されました。ゆったりとした間取りに北欧調の家具。超高層ビル群の中なのにこんなに空が広いかと思うほどに開放的な気分を味わいました。

■独立戦争を経て代表民会が決めた国王

今に続く王政がスウェーデンで始まったのは1523年の6月6日。その日は「国旗の日」とも呼ばれるナショナルデーです。

スウェーデンはヴァイキングの時代を経て、14世紀末からノルウェー、デンマーク、スウェーデンの3国で同じ国王を戴く同盟を結んでいましたが、デンマークとの独立戦争を経て同盟を解消し、戦争を牽引してきた若いグスタフ・ヴァーサが初代国王に選ばれました。『物語スウェーデン史』(武田龍夫、新評論)によると、国王に推薦されたヴァーサを市民の代表27人からなる「代表民会」が一致して国王に選び、それから21年後に王位の世襲が決められたそうです。

スウェーデンが日本と外交関係を結んだのは1868(明治元)年のことですが、徳川幕府の鎖国時代に日本に1年ほど滞在したスウェーデン人がいました。長崎のオランダ商館の医師だったカール・ツュンベリーです。「二名法」という動植物の学名を定着させたカール・リンネの弟子で、後にウプサラ大学の植物学と医学の正教授を務めます。

江戸参府の折、『解体新書』を翻訳した日本の医師たちに西洋医学を教え、帰国して『日本植物誌』なども著しています。2007(平成19)年5月、ロンドンでリンネ生誕300年の記念行事が行われた折、上皇さまは基調講演の中でツュンベリーが日本に残したものにスポットを当てられています。

■帝国ホテルから始まった公使館

外交関係が始まっても、スウェーデンは同君連合を組んでいたノルウェーと共に外交をオランダの公使に委任していました。独自の公使を送ってきたのは1906(明治39年)。ノルウェーとの連合を解消した後でした。『明治天皇紀』には、1907(明治40年)1月12日、初代公使のグスタフ・ワレンバーグが明治天皇に信任状を提出して謁見したことが記されています。日本はその3年前にスウェーデンに公使館を開いています。

当時の日本に洋館は少なく、事務所は帝国ホテル内に置かれました。歴代の公使たちは外交の拠点にふさわしい場所と建物を求め、築地、麻布、赤坂、麹町と15回近い引っ越しを重ねます。1939(昭和14)年、日本に住むスウェーデン人たちの寄付により現在の大使館が建つ用地を取得します。しかし、先の大戦が始まって公使館建設は凍結されてしまいました。

ちなみに、イギリス大使館は1872(明治5)年から現在の千代田区一番町に、アメリカ大使館も1890(明治23)年に今の港区赤坂に公使館を構えていますから、戦後まで仮住まいが続いたスウェーデンの苦労がしのばれます。

■大戦中は東京と軽井沢で活動

大使館の歴史をまとめた『東京スウェーデン大使館』(スウェーデン国家公共建物庁)という冊子の中に、戦時中、公使館は軽井沢の洋風の一軒家に疎開し、職員が東京と軽井沢で交替勤務をしたことが記されていました。

事実関係を調べる中で、『アウトサイダーたちの太平洋戦争――知られざる戦時下軽井沢の外国人』(高川邦子著、芙蓉書房出版)という本に出会い、戦時中の日本に多くの外国人が暮らしていたことを知りました。

戦争が始まると政府は外国人の旅行を制限し、横須賀軍港や横浜港などが見える地域に外国人が住むことを禁じます。さらに、終戦の年の6月には「保護」と「防諜」を名目に外交使節を含む外国人を国費で強制疎開させます。ドイツの人は山梨県の河口湖畔、ソ連(当時)やバチカンなどの人は神奈川県の箱根、スイスやスウェーデンなどの人は長野県の軽井沢へ。軽井沢には外務省の出張所が置かれ、公使も駐在しました。アメリカなど交戦国の外交官や民間人は交換船で日本を離れていました。

高川さんの本には、軽井沢の外国人は強制疎開が始まった時点で千数百人、スウェーデン公使館関係は家族を含めて23人という数字が示されています。軽井沢にはロシア革命から逃れてきた白系ロシア人や、ドイツなどから逃れてきたユダヤ人などの一般の人たちもいました。食料の配給はあってもとても足りず、みな近郊の農家へカメラや衣服を持ち込んでは食べ物に換えてもらう厳しい生活だったそうです。

■スウェーデンで行われた和平工作

外務省の『終戦史録』(1952年刊)に「バッゲ工作」という項があります。1937(昭和12)年から1945(昭和20)年にかけて日本に滞在したウィダー・バッゲ駐日スウェーデン公使です。

『終戦史録』にはバッゲ公使が東京裁判に提出した「供述書」の一部も添えられています。それによると、バッゲ公使は親しい友人から日本は戦争で得た領土を返すほか、満州国も放棄する心積もりがあるので、スウェーデン政府からイギリス政府に探りを入れてもらえないかと相談され、小磯國昭内閣の重光葵外相とも会って一役買おうと意を強くします。1945(昭和20)年4月、本国政府に諮り、スウェーデンの日本大使と連携しようとシベリア経由で帰国していきました。

ところがです。日本を発つ直前に小磯内閣が倒れて鈴木貫太郎内閣になり、外務大臣も重光葵から東郷茂徳に代わります。バッゲ公使は東郷外相に会えないまま出発し、ストックホルムに着いてすぐ日本公使館に岡本季正公使を訪ねますが、公使は初めて聞く話に驚きます。日本に照会しても返事は「前内閣当時に行われたことは、とくに調査してみる必要があるから、相当時日を要するものとご承知ありたい」という素っ気ないもので、「バッゲ工作」は消えてしまいました。

そのころ、ストックホルムには駐在武官の小野寺信・陸軍少将がいて、当時のグスタフ5世の甥のカール王子と接触してスウェーデン王室を通じた和平の道を探っていました。しかし、動きがスウェーデンの新聞に報じられ、日本から釘を刺されてこちらも頓挫してしまいます。はるか離れた北欧の地で和平を模索する動きがありました。

■ポツダム宣言の受諾ーー英国・ソ連への連絡はスウェーデン政府に要請

1945(昭和20)年8月10日、日本は御前会議を経てポツダム宣言の受諾を決定します。『昭和天皇実録』によると、この時、日本は、イギリスとソ連への連絡をストックホルムの日本公使を通じてスウェーデン政府に要請しています。アメリカと中国への連絡はスイス政府に依頼しました。

毎日新聞によると、スイス政府は日本から依頼を受けた10日から終戦の15日にかけて徹夜の態勢を敷いたそうですから、スウェーデン政府も同じような態勢をとったことが推測されます。日本の重大局面にスウェーデンは大きく関わっていたのです。

■占領下に届いた王子誕生の親書

戦後の1946(昭和21)年。グスタフ5世からひ孫の誕生を知らせる5月10日付の親書が昭和天皇に届きます。このひ孫が、今年9月に即位50周年の節目を迎えるカール16世グスタフ国王です。

『昭和天皇実録』に、それが戦後初めて外国元首から送られた親書だったことが記されています。GHQ(連合国軍総司令部)を経由して届き、11月28日に発信された返書は、検閲のため開封のまま外務省に渡されました。この返信の親書に使われたのが、戦後の国語改革で告示されたばかりの「当用漢字」と「現代かなづかい」。「平仮名混じりの口語体」でした。皇室の親書でもスウェーデンはエポックを画していました。

2か月後の1947(昭和22)年1月、誕生したばかりのひ孫の父、グスタフ・アドルフ王子が飛行機事故で亡くなり、昭和天皇はGHQを介し駐日スウェーデン外交代表を通じて弔電を送ります。国王からはお礼の電報が届き、その後、親書も寄せられます。

こうした親書や電報の往来から、国際社会から切り離されていた占領下の日本に対し、スウェーデンが戦前と変わらずに接してくれていたことがわかります。その理由は、国王の長男、皇太子時代のグスタフ6世の来日にあるように思われます。

1926(大正15)年9月、のちのグスタフ6世が夫妻で来日します。考古学に関心が強く、前もって千葉県の姥山貝塚と埼玉県の吉見百穴を見学したいという希望が伝えられていました。昭和天皇は来日の前に東京帝大理学部の助教授から貝塚や訪問場所について講話を聞き、グスタフ6世が「風邪で発熱」して6日間も寝込んだ時は侍医を遣わしています。その静養の最中に国王から「友情の徴証と歓待を謝する」という電報が届きます。この時のおもてなしがスウェーデンの厚情の背景にあるように思えてなりません。

■旭川に根付くグスタフ・ヴァーサ

500年前のグスタフ・ヴァーサは遠い存在ですが、その名は北海道旭川市でしっかり根付いています。クロスカントリーのスキー大会「ヴァーサロペット」です。グスタフ・ヴァーサがデンマークの追っ手からスキーで逃れた故事に由来するスウェーデンのスキー大会で、1922(大正11)年に独立を祝う行事として始まりました。「ロペット」は競走という意味だそうです。

1981(昭和56)年3月、スウェーデンの大会にならって「旭川国際バーサー大会」が始まり、2003(平成15)年に今の名称「バーサーロペット・ジャパン」となって続いています。カール16世グスタフ国王も1990(平成2)年の第10回大会に参加し、軽やかに30キロを〝熱走〟して地元の人たちと交流しています。

■もっと知られていいスウェーデンという国

ヘーグベリ大使は言います。

「日本とスウェーデンは互いに学ぶべきことが多く、国際的にも協力すべきです。ウクライナの戦争があり、最近は世界が不安定になっている時だけに、私たちのように仲の良い国は関係を大切にしていくべきだと思います。それが平和の安定につながると信じます」

大使館のロビーの隅にスウェーデンの発明品を紹介するパネルがありました。ダイナマイト、モンキーレンチ、ペースメーカー、安全マッチ、三点式シートベルト、摂氏の温度表示、Bluetooth……。毎日のようにお世話になっている品々がスウェーデンの発明品と知って驚きます。〝ノーベル賞の国〟というだけでなく、大使館のフォルムに込められた文化融合の思いや終戦末期のエピソードなど、節目の年に始まるリノベーションを機にスウェーデンという国はもっと知られていいと思います。


【メモ】
スウェーデン 約45万平方キロの国土(日本の1.2倍)に約1045万人が暮らす。首都はストックホルム。1979年に王位継承法を改正し、男女の区別なく第1子に王位継承権を与えることにし、長女のヴィクトリア王女が皇太子に。今のカール16世グスタフ国王は親日家で、来日は20数回に上る。2019年の即位の礼には国王と皇太子が親子で参列した。

【略年表】
1523(大永3)  グスタフ・ヴァーサが国王に
1868(明治元)  外交関係が始まる
1905(明治38) 日本がスウェーデンに公使を送る
1906(明治39) 東京にスウェーデン公使館が置かれる
1939(昭和14) 現在の六本木の用地を取得
1945(昭和20) ポツダム宣言の受諾を英ソに伝えてもらう
1973(昭和48) カール16世グスタフ国王即位
1991(平成 3) 今の大使館が完成
2023(令和 5) 王政500周年、国王即位50周年


【筆者プロフィル】井上茂男(いのうえ・しげお) 日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社会部で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご成婚などを取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として上皇ご夫妻や皇后雅子さまの病気、愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公ラクレ)。