【皇室コラム】天皇皇后両陛下 阪神・淡路大震災30年の神戸訪問「次の世代へと引き継がれていくことを」
阪神・淡路大震災から30年になる1月17日。午前5時前に追悼行事が行われる神戸市の東遊園地を訪ねました。スマホが示す「体感温度」はマイナス3度。厳しい寒さでも月がのぞく穏やかな朝です。高齢の夫婦が、子どもを連れた家族が、続々と集まってきていました。
竹灯籠にロウソクの火が入れられていきます。その灯りは闇に包まれた被災地を照らした「生きている証」です。「絆」「歩」「生」「希望」……。灯籠に書かれたメッセージを炎が照らします。やがて無数の灯りが作る「よりそう 1・17」という文字が浮かび上がりました。
最大震度7の地震が起きた午前5時46分。黙とうが始まります。死者6434人、行方不明3人。会場を埋めた人たちが竹灯籠を囲んで手を合わせています。ロウソクが発する熱なのか、被災地の祈りの熱量によるのか、寒さが少し緩んだように感じられました。
遺族代表の挨拶です。当時小学2年生。家具の下敷きで母と弟を亡くした人です。
「神戸に住む半数以上が震災を知らない世代になりました。記憶が風化し、大地震が起きたときに教訓が生かされない恐れがあります。これからも教訓を語り継ぎます」。
集まっている人たちの多くが若い世代です。語り継ぐ大切さを思いました。
読売新聞の記者だった30年前のあの朝。東京からすぐ神戸に向かうように命じられました。しかし、3日後から皇太子ご夫妻(天皇皇后両陛下)の中東訪問に同行し、その日の午後にはお二人の記者会見が予定されていたために動けませんでした。
ご訪問は中止になると思いましたが、結婚前に中東6か国訪問が計画され、湾岸情勢で2度延期になった経緯がありました。ご結婚で訪問は2回に分けられ、最初の訪問は2か月前に行われて成功裏に終わっていました。それだけに「残る国々に3度の延期は失礼」と、予定通りの出発が決まりました。
会見は「お気持ち」を受けて出発前日の19日に延期されました。陛下は大災害の中で外国へ行くことについて「大変忍びない気持ちでおります」と沈痛な面持ちで述べられました。旅は、日に日に拡大する被害に重い空気に包まれました。親善の場で見るお二人の笑顔は痛々しく感じられましたが、「こんな時に楽しんでいる」と日本の目は冷ややかでした。結局、2日切り上げての帰国となりました。
帰国前の記者会見は重苦しいものでした。陛下は「日本を離れて一日一日と被害が大きくなっている現状に大変心を痛めていました」と述べ、「この約束は、皇太子の立場上、果たさなければならないと思っており、その狭間(はざま)をどう考えたらいいのか難しかった」と話されました。「狭間」という言葉に、大災害の最中に日本を離れなければならなかった葛藤が感じられました。
お二人が被災地に入られたのは2月26日。西宮と芦屋の2市の合同慰霊祭でした。神戸市灘区の阪神西灘駅の復旧現場で作業に当たる人たちを激励し、諏訪山小学校の避難所では雅子さまが約30人に囲まれて握手攻めになりました。3月5日には神戸市など3市の合同慰霊祭で再び神戸入りし、ヘリで淡路島も見舞われました。避難所で膝をつき、被災した人たちの話にじっと耳を傾け、励まされる姿が思い出されます。
あれから30年。天皇、皇后になって初めて追悼式典に臨まれる両陛下を取材しようと神戸に向かいました。17日朝、会場近くの沿道で待つと、ゆっくりと車が近づいてきました。陛下も、皇后さまも、笑顔で、丁寧に手を振って、歓迎に応えられています。震災から復興した神戸の人たちに“励まし”と“ねぎらい”を送っているように思いました。
追悼式典のお言葉の中に、「震災を経験していない世代の人々が増えています」という一節がありました。発災時刻の追悼行事で遺族も話していたことです。陛下は兵庫県が教訓をつなぐために進めている取り組みに触れ、「知見が国の内外に広がり、次の世代へと引き継がれていくことを期待いたします」と結ばれました。
陛下が「水問題」を研究されていることは知られていますが、その領域は「災害」「減災」にも広がっています。陛下は「歴史上の経験と知恵から学ぶ」大切さをよく言われますから、お言葉の「知見を引き継ぐ」も同じ思いでしょう。この日は防災を学ぶ小学生たちとも交流され、思いの強さを感じました。
16日の夜、30年前に取材した小学校の先生と連絡を取り、熱燗を傾けました。西宮の小学校でクラス担任だった松田満さんです。「しんどいことしたら、ええことあるで」。そんな言葉で子どもたちを励ましてきた“熱血先生”も69歳。年賀状でつながり、「いつか会いましょう」とあてのない再会を約してきた人でした。
中東訪問から戻って被災地に何度か入り、半年後、子どもたちの「心のケア」を取材する中で松田さんと出会いました。震災時は6年3組の担任。クラスでも1人が亡くなり、「教師にもケアが必要ですわ」と話していました。
注目したのは子どもたちの日記をつづった手書きの「学級通信」でした。地震のこと、辛いこと、楽しいこと、先生への文句……。放課後にみんなの前で読みながら思いを共有し、寄り添っていました。
再会を喜んだあと、松田さんは表情を曇らせました。「『あれから30年ですね』という言葉に、次の句が見当たらへんねん。震災から時が刻まれてへん。そのまま続いていて、句読点のない文章のようになってるねん」。
両陛下の取材で来たことを伝えると、少し考えて「なんか今はお二人の訪問をふつうに受け止められるわ。震災から間もなくの上皇ご夫妻のお見舞いからやね、きっと」と言いました。焼け跡にスイセンの花を置かれた上皇后さまの姿が記憶の中にあるようでした。
「あすは一日中モヤモヤした気持ちで過ごしますわ。毎年そやねんけど……」。別れ際の言葉は湿って聞こえ、訳を尋ねるのを控えました。
両陛下を迎えた神戸の沿道は大変な熱気でした。寒空に1時間も前から並んだ人たちの表情は明るく、「見たい」「迎えたい」という思いがわかります。お二人が折々に心から被災者に向き合われてきたことを皆が知っているからでしょう。松田さんの声がよみがえります。
阪神・淡路大震災は、ご結婚間もない両陛下が二人で向き合われた最初の災害です。あれから30年。車の中から丁寧に手を振るお二人に、国民の中に入って心を添わせようとされている、そこに日本を離れて案じるしかなかったあの忍びない日々があると、神戸の街角で思いました。
(日本テレビ客員解説員 井上茂男)