「釜石の奇跡」から10年 今伝えたいこと
東日本大震災で津波が襲った岩手県釜石市では、避難行動が津波からの被害を最小限に食い止め、小中学生の生存率が99.8%だったことから、「釜石の奇跡」といわれた。
震災当時、中学3年生だった菊池のどかさんは、現在、岩手・釜石市の津波伝承施設「いのちをつなぐ未来館」で津波の惨状などを伝える“語り部ガイド”として活動している。
震災10年に際し、菊池さんは、BS日テレ「深層NEWS」のインタビュー取材に応じた。
右松健太キャスター(以下、右松)
「どのような気持ちでこの10年を迎えましたか」
菊池のどかさん(以下、菊池さん)
「この10年、長かったといえば長かったですし、短かったといえば短かった。正直長さではもうわからないくらい。ただ私にとってすごく大きかった10年間でした。
話す仕事に今はついているが、話せなくなった時期が2年から3年ほどあったし、本当にたくさんの人たちのおかげで今こうやってお話することがまたできるようになりました。
今現在コロナウイルスの関係もあってなかなか多くの人に伝えることは難しい状況にはありますが、目の前の一人一人を大切に、目の前の人の命を助けるんだっていう気持ちでお話しています」
右松
「あの日どのような行動をされたのか教えていただけますか」
菊池さん
「私は中学3年生で、鵜住居町の中学校に通っていました。外に行ったときに地震が起きまして、ものすごく大きな揺れ、それから長い揺れでした。
あと、山から音が鳴ってくるような大きな地響きがあって、この三つが揃ったら津波が来るよっていうのを地域の人たちに言われてたので、すぐに津波が来るんだって思い、学校からすぐに走って避難を始めました。
1回目に逃げた場所で点呼をとって、そこからまたさらに上の避難場所に逃げまして、そこで後ろを見たら、もう津波が来ていました。
津波が来ていて、そのときにそのいた場所にとどまると、多分自分の命がなくなると思って、死にたくないと思って山まで走ったのを覚えています」
右松
「今、語り部という仕事をされていますね」
菊池さん
「亡くなった方々は、震災前は私達に教えてくれていた人とか、一生懸命誰かを助けようとしていた人たちがすごく多くて、その中で、多分誰かを助けようとして亡くなった人がすごく多かったんだなっていうのは、震災後思いました。
私達自身も震災があって、初めて先人の気持ちがわかったというか、多分先人もこうやって何かどうにかして残そうと頑張って、でもそれを果たして私たちは震災前ちゃんと繋いでいたかっていうと、正直自信持って繋いでいたって言えない部分もあって。
本当に災害に遭ったことがないというか津波に遭ったことがないという、そのときの気持ちも私たち自身がわかるので、次の人たちがより繋ぎやすいようにわかりやすいように簡単に伝えていかないといけないなと感じています。
自分たちはすごくたくさんいろんな支援もしてもらって10年間こうやって過ごしてきて、返せるものが何もないというか、申し訳ないなって思うんですけど、やっぱり自分は、みんなに災害で命を落としてほしくないし、自分たちにできることは、そのときのお話をして意識を持ってもらうっていうことだったりとか、この町の次の世代の子供たちに、どういう町なのかを伝えたり、防災を楽しんでもらったり、とにかく関わりやすいものにしていくところは、私達がやるべきところなのかなと思います。
専門家がやるものではなく、みんなができるものだよ、みんなやっていいものだよっていうのをお話するっていう語り継ぎ方もありますし、いろんな継ぐ方法があるので、できることは全部やっていきたいなと思っています」
(※詳しくは動画をご覧下さい)