パラ閉会式「7本指」ピアノ演奏と未来・1
東京パラリンピックの閉会式で最後に流れた名曲「What a Wonderful World」。音楽とともに聖火が消えていく光景は、世界中の多くの人の胸に残りました。この曲をピアノで演奏した「7本指のピアニスト」西川悟平さんに話を聞きました。
9月5日の閉会式、難民選手団を含む162の国と地域が参加した大会の最後に流れたのは、ルイ・アームストロングの名曲「What a Wonderful World(この素晴らしき世界)」でした。美しいピアノの調べとともに聖火台の火が消えていく光景は、世界中の多くの人の胸に残りました。
この曲をピアノで演奏したのが西川悟平さん(46歳)。神経障害の「局所性ジストニア」と闘いながら演奏活動を続け、『7本指のピアニスト』と呼ばれています。西川さんは「指は左右で10本あって、普段は他の人と変わりなく生活しています。ただピアノ演奏の時だけ、意に反して指が硬直してしまうんです」と説明します。ジストニアは自分の意思とは関係なく筋肉が動く運動障害で、音楽家など特定の動作を繰り返す職業の人で発症しやすいとされています。
西川さんは24歳の時にアメリカ・ニューヨークでデビュー。しかしその後、指が次々と硬直し、2年後には両手の演奏機能を完全に失いました。日米の5人の医師から「もう二度とピアノは弾けません」と言われましたが、数年にわたって粘り強い練習を続け、今では右手の指5本と左手の親指、人さし指の合わせて7本の指で、世界中で演奏活動を続けています。
西川さんに閉会式での体験や、参加した思いについて聞きました。
■無理と言われ続けた人生でも「命がけでやらせていただきます!」
――閉会式を終えて今の気持ちは。
本当に幸せです! そして「やっぱり夢はかなうんだ!」って思いました。僕は(生まれ育った)大阪からそのままニューヨークへ渡ったので、初めて東京で演奏したのが6年前でした。その頃から「夢は東京オリンピック・パラリンピックで演奏すること!」と言い続けていました。
――何か自分へのご褒美はしましたか。
ラーメンとご飯を一気に食べて、「うまか棒」を8本食べました!
――オリ・パラでの演奏が夢だったんですね。
僕は15歳でピアノを始めたんですが、人からは「遅すぎる。音楽大学なんて行けっこない」と言われました。でも、行けたんです。ニューヨークに渡るときも、「ニューヨークはそんな甘いもんじゃないよ」って言われた。でも20年間、現地でピアニストとして活動できました。ジストニアになったときも、5人の医師から「あなたは、もう二度とピアノは弾けません」と断言された。でも今、弾いています。7本指だけど。
そんな僕の最大の夢が「オリンピックの開会式でピアノを弾いて、パラリンピックの閉会式で弾く」だったんです。これまで「そんなの、無理無理」と言われ続けてきた僕でも、世界中の人が見ている式典で、何億人という人たちの前でピアノを弾けるって証明したかったんです。
なので、終わった今、僕が言いたいのは「ほら、できたじゃん!」なんです。否定されても諦めなくてよかったと思っています。
――閉会式で演奏することは秘密だったのですか。
守秘義務があって、弟にも最後まで言えなかったんです。
――どのように参加が決まったのですか。
(閉会式の)ショーの総合演出をした小橋賢児さんとは1年半ほど前に、共通の知り合いの紹介で少しお話ししたことがありました。ただそれ以来、やりとりがなかったので、急に小橋さんからメッセージが来たときは、なんだろうと思いました。
お電話したところ、「実は僕、パラリンピックの閉会式でショーの総合演出をすることになって」とおっしゃったので、心の中で『端っこでもいいから演奏させてもらえないかなあ…』ぐらいに思っていました。そうしたら、「西川さんにはソロでピアノを弾いていただきたいんです」と言われて、とても驚きました!
なのでスマートフォンを握りしめながら、「小橋さん、僕はパラの閉会式で演奏することが、ずっと夢だったんです。何よりも大切なのは、見てくださっている世界中の人たちに『諦めないで進もう』というメッセージを届けることなので、そこは全力で命がけでやらせていただきます!」と即答しました。
――なぜ西川さんにオファーしたのでしょうか。
小橋さんが総合演出をやると決まった時に、僕のことがフッと浮かんだそうです。僕がジストニアを発症しながら演奏を続けていて「オリ・パラで弾くのが夢」と話していたことや、僕のスマホの待ち受け画面が大会ロゴだったことを思い出したそうです。本当にびっくりしました。
■「心が救われた曲」を演奏
――曲が「What a Wonderful World」だと聞いたときは、どう思いましたか。
大好きな曲です! 僕がニューヨークで指の不調で落ち込んでいた時、地下鉄の駅でこの曲を演奏している人がいて、その音色にとても心が救われたんです。そんな思い出の曲を今回、イントロから独唱、合唱、聖火台が回り始めて火が消えるまで、演奏させてもらいました。大切に弾こうと、毎日必ず11時間くらい練習していました。
――どんな工夫をしましたか。
演出の小橋さん自身にイメージがあるから、それに応えるよう頑張りました。
最初に奥野敦士さんが歌う場面では――奥野さんは事故で頸椎(けいつい)を損傷して、首から下がまひするという重度の障害を負った方なんです。小橋さんから「一度は歌うことを止めた奥野さんが、何年もかけて『車いすのベルトをきつく締めて体をキープして歌う』方法を編み出した…そうして大切にしぼり出したグーッという太い声…そんな感じをピアノで表現してほしい!」と言われたので、奥野さんの声質を生かすように、思い切ってジャズのようにして弾きました。
そして僕のソロはドラマチックに。視力障害のある女子高校生ボーカリスト・小汐唯菜さんのパートはクラシックで寄り添うように…と変化をつけました。聞いた方に少しでも、『諦めないで進もう』というメッセージが伝わったならいいなと思います。
写真:SportsPressJP/アフロ
<「パラ閉会式『7本指』ピアノ演奏と未来・2」へ続く>