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絆の果てに-北方領土…断たれた30年の交流

2022年8月19日 12:28
絆の果てに-北方領土…断たれた30年の交流
北方領土元島民の得能宏さんは、30年前に始まったビザなし交流で、ロシア人のトマソンさんと出会い、親子のような絆を培ってきました。しかし、ロシアによるウクライナ侵攻で交流は中断。「いつかは島へ返りたい」…その願いが叶う日は来るのか。

ふるさとを奪ったロシア人と絆をつないできた、元島民たち。しかしその交流は、突如断たれました。

色丹島出身の得能宏さん。手を合わせる墓の中に、祖父たちの遺骨はありません。

得能さん「(遺骨は)色丹に眠っているわけだから。いつでも行けるのと違って、行きたい時に行けない」

近くて遠いふるさと、北方領土。

得能さん「楽しいもんだったよ。1日に7頭も8頭も(クジラが)揚がってくるんだよ」

富山県から移り住んだ、得能さんの祖父は、クジラ漁で生計を立てていました。平穏だった島の生活は、11歳の夏に一変します。

1945年、ソ連は日ソ中立条約を破り、旧満州や千島列島などに侵攻。北方4島を全て占領しました。

得能さん「ソ連兵が7人か、8人かな。連発銃みたいなものをもって勢いよく(教室に)入ってきた。僕らは悲鳴をあげるなんてもんじゃなかった」

強制送還を命じられた島民たちが向かったのは、当時、日本の領土だった、樺太。

得能さん「樺太の収容所で、大変だった。死ぬのが先なのか。日本から迎えに来る船が先なのかどっちなんだと」

家族は、命からがら北海道の函館に引き揚げました。

得能さん「返せー」

島を追われた元島民たちは、長年、返還を訴え続けました。1991年、来日したゴルバチョフ大統領は日本との間に、「領土問題がある」と初めて認めました。

その翌年に始まった「ビザなし交流」。元島民とロシア人が訪問し合い、友好を深める取り組みです。その交流の中で、知り合った得能さんとトマソンさん。

得能さん「年聞いたら息子とだいたい年同じさ。俺の息子にならないかと。『ハラショー(すばらしい)』となった」

必ず出迎えてくれた、色丹に住むロシア人の〝息子〟

得能さん「子どもです。息子」

祖父の遺骨が眠る、ふるさとの墓地。トマソンさんも手を合わせます。長男が誕生した時も、

得能さん「覚えといてよ、覚えとくんだよ。じいじだよ。根室のじいじだよ」

しかし2月、ロシアがウクライナに軍事侵攻。日露の亀裂は深まり、交流は中断されました。

得能さん「涙が出るくらい悔しいよ」

赤ちゃんだったトマソンさんの長男は小学生に。娘も生まれていました。彼らにとっても島は、ふるさと。

トマソンさん「私自身は領土問題はないと考える。でも日本側からみればあるのかもしれません」

コロナ禍もあり、3年間会えていない2人。

トマソンさん「パパオゲンキデス?オハヨウゴザイマシタ」

得能さん「おはようございます。これが私の2番目の息子、悟」

トマソンさん「サトルさん?」

得能さん「もしも、僕が行けなくてもこの息子が行きますから。あなたの兄弟ですから」

トマソンさん「もちろん息子さんと喜んでお会いします。でも得能さん自身も必ず来てください。88歳なんてまだこれからですよ」

得能さん「心はまだ頑張れると思う。だから今度は、みんなで色丹に行きますからね」

トマソンさん「マタアイマショウ!」

得能さん「名残惜しいね、名残惜しい」

記者「もしかしたらもう島に行けないかも、と思うことあります?」

得能さん「うん、ある。やっぱりね、88歳超えちゃったらね…」

遅い春を迎えた、色丹島。

トマソンさん「墓は守っているから大丈夫だと得能さんに伝えたいです。また先祖の墓参りに来てくれるのを待っています」

2022年6月19日放送NNNドキュメント’22『絆の果てに 北方領土…断たれた30年の交流』(札幌テレビ制作)を再編集しました