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上皇ご夫妻のフィリピン慰霊の旅「日本人が決して忘れてはならないこと」【皇室 a Moment】

2022年9月18日 16:35
上皇ご夫妻のフィリピン慰霊の旅「日本人が決して忘れてはならないこと」【皇室 a Moment】
2016年フィリピンご訪問

ひとつの瞬間から知られざる皇室の実像に迫る「皇室 a Moment」。今回は、上皇さまの在位中、外国での最後の慰霊となったフィリピン訪問について、日本テレビ客員解説員の井上茂男さんとスポットを当てます。

▶上皇ご夫妻、在位中最後の海外慰霊の旅

――井上さん、こちらはどういう場面でしょうか?

 2016(平成28)年1月、天皇皇后両陛下だった上皇ご夫妻がフィリピンを訪れ太平洋戦争の戦没者慰霊をされた場面で、向かって右側がフィリピン人戦没者の慰霊碑、左側が日本人戦没者の慰霊碑です。
このご訪問で、上皇ご夫妻は、まず首都マニラにある「英雄墓地」を訪ね、「無名戦士の墓」で太平洋戦争などで亡くなったフィリピン人犠牲者の慰霊をされました。その後、訪問されたのが、マニラからおよそ100キロ離れたカリラヤの地に日本政府が立てた「比島戦没者の碑」です。

上皇ご夫妻は戦後60年にサイパン、70年にパラオで日本人戦没者の慰霊をされていますが、その翌年のフィリピン訪問は海外での3回目の慰霊で、これが在位中、海外での最後の戦没者慰霊となりました。

――まずは地図をご覧ください。台湾の南、インドシナ半島の東側にフィリピン諸島があります。北から南へ、首都マニラのあるルソン島、レイテ島、ミンダナオ島などが連なっています。

▶フィリピン側の犠牲者110万人

フィリピンは太平洋戦争屈指の激戦地でした。日本は1942(昭和17)年1月、米軍の植民地だったフィリピンの首都マニラを占領、各地へ侵攻していきました。

3年後、米軍は圧倒的な軍事力でレイテ島に上陸し、フィリピンで組織された抗日ゲリラも抵抗を続け、日本軍の主力部隊は終戦の年の6月までに壊滅しました。このフィリピン戦のフィリピン側の犠牲者は110万人に上ると言われ、特に「マニラ市街戦」では、日本軍による殺害もあって、市民10万人が犠牲になったとされています。

このため、フィリピンは戦後長らく、アジアの中で対日感情が厳しい国として知られました。

――そのフィリピンを上皇ご夫妻は訪問されたわけですね。

両国の国交正常化60周年の節目となった2016年の訪問は、歴代天皇として初めてのフィリピン訪問でした。歓迎式典でご夫妻を迎えたのは、当時のベニグノ・アキノ大統領です。

訪問2日目、ご夫妻は冒頭で紹介した「英雄墓地」で慰霊を行われました。上皇ご夫妻が強く希望された慰霊です。慰霊碑までのおよそ30メートルの小道をゆっくり進み、花輪を供えて2分近く深々と慰霊されました。その様子は現地のテレビでも中継され、お二人の姿はフィリピンの人たちに強い印象を残しました。

この日の夜、アキノ大統領主催の晩さん会で、上皇さまはフィリピンの犠牲者について述べられました。

上皇さま「この戦争においては、貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、このことにより貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり、この度の訪問においても、私どもはこのことを深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでいます」

――「決して忘れてはならない」という言葉の強さは私たち日本人に対するメッセージでもありますね。

そう思います。〝慰霊なしに友好はない〟という上皇さまの強いお気持ちがわかります。

▶BC級戦犯137人を恩赦にしたキリノ元大統領

ご夫妻は、戦後まもなく大統領を務めたエルピディオ・キリノ元大統領の遺族にも会われました。

元大統領はマニラの市街戦で、日本軍に最愛の妻と3人の子どもを殺された人です。戦後フィリピン政府はBC級戦犯の裁判で日本人戦犯137人に有罪判決を下します。うち79人が死刑判決でした。この戦犯が収容されたのが日本の戦後歌謡の題名としても知られた「モンテンルパ刑務所」です。

キリノ元大統領は死刑執行に署名しますが、キリスト教徒として悩みます。日本で戦犯の救出を求める声も強まり、1953年、元大統領は死刑囚を含む戦犯に恩赦を与えて日本に返しました。この恩赦をきっかけに、両国は1956年の国交回復へと進むことになります。

上皇ご夫妻は、この夜、キリノ元大統領の孫娘のルビーさんとコリーさんに対し、63年前の元大統領の決断に感謝の気持ちを示されました。

ルビーさん「(皇后さまは)『私たちはキリノ大統領が与えてくださった〝赦(ゆる)し〟を決して忘れません』と(話された)」

――キリノ大統領がいなければ、日本とフィリピンとの関係は今とは全く違ったものになっていたかも知れませんね。

そう思います。東京の日比谷公園にこのキリノ元大統領の顕彰碑があります。先日行って撮ってきた写真ですが、上皇ご夫妻ご訪問の5か月後に建てられました。そこには元大統領の〝恩赦〟の際の声明文が刻まれています。それがこちらです。

【キリノ元大統領の"恩赦”声明文】
「私は、妻と3人の子供、5人の親族を日本人に殺された者として、彼らを赦(ゆる)すことになるとは思いも寄らなかった。私は、自分の子供や国民に、我々の友となり、我が国に末永く恩恵をもたらすであろう日本人に対する憎悪の念を残さないために、これを行うのである。やはり、我々は隣国となる運命なのだ」

――このキリノ大統領の胸の内を想像すると、本当に心が苦しくなりましたけれども、それでも未来を見据えたご決断だったんですね。

▶海外最多 51万8000人の日本人戦没者

――フィリピンでは日本人も大勢亡くなっていますよね

フィリピンの日本人戦没者は餓死や病死を含めて51万8000人に上り、外国での戦没者の数では最多です。心が痛むことに、今も約37万人の遺骨が収容されずに残されたままです。

滞在4日目、ご夫妻はマニラから100キロ離れたカリラヤをヘリコプターで訪ねられました。これが冒頭で紹介した「比島戦没者慰霊の碑」です。遺族や生き残った元日本兵も集まり、涙をぬぐいながらご夫妻の慰霊を見守りました。

花を手向け、深く拝礼した後、ご夫妻は、遺族らのもとに近づかれました。当初代表だけにお声かけの予定でしたが、多くの人に「残念なことでしたね」「身体に気をつけて」などと声をかけられました。

上皇后さま「こちらがお父様?」
上皇さま「若いね」上皇后さま「20代?」
遺族「28です」
元日本兵「私はマニラから東海岸に山越えして・・・」
上皇后さま「よく生き抜いてくださいましたね。ご苦労さまでございました」

遺族インタビュー「みんな喜んでいますよ。亡くなられた兵隊さんだけじゃなくて、両親、その子どもさん、奥さん、今日の日をみんな喜んでいるんじゃないでしょうか」

また、この訪問で、ご夫妻は日本とフィリピン両国の狭間で翻弄された日系人たちにも会われました。戦前からフィリピンには多くの日本人が移り住み、麻の栽培などを行ってきました。現地女性と結婚した人も多く、子どもの2世たちは父親を戦争で亡くすなどして困窮し、また激しい反日感情の中で名前を変え、日系人であることを隠して暮らしてきました。

ご夫妻は当初、代表者にだけ会われる予定でしたが、2世たちの思いを汲み、ホテルのロビーで即席の懇談の場が設けられました。

女性「Very Happy to see you」
上皇さま「ずいぶん戦争の頃は大変だったでしょうね」

最後に上皇さまが「戦争中は皆さん、ずいぶんご苦労も多かったと思います。よき市民として活躍して今日に至っているということを大変嬉しく誇らしく思います」とねぎらわれると、涙ぐむ人もいました。

――恥ずかしながら、フィリピンで日系人の方々がこんなに苦しい思いをされてきたこと、そのこと自体を知りませんでした。

光が当たらなかった人たちにも決して忘れないと、寄り添う姿勢を見せられたんですよね。

▶大統領の親子2代にわたる交流

実は、上皇ご夫妻は皇太子ご夫妻時代の1962年11月に最初のフィリピン訪問をされています。こちらの写真をごらんください。

9か月前のインドネシア訪問の時の写真です。この時、インドネシアからフィリピンを訪問される予定でしたが、上皇さまはインフルエンザで39度の熱が出てバリ島で4日間寝込んでしまわれます。フィリピン訪問を中止して帰国されました。

写真は回復して安堵されたご夫妻の表情をとらえたものですが、外国訪問で体調を崩して、日程を取りやめたのはこの一度だけでした。

――そうだったんですね。

9か月後、ご夫妻は仕切り直し、昭和天皇の名代としてフィリピンを初めて訪問されました。若いお二人は現地で温かく迎えられましたが、この時の思いを後にアキノ大統領に「フィリピン国民が過去に経験した痛みを思うと、自身をどのように迎えてくれるのか不安であった」と明かされたそうです。

2016年の天皇としてのフィリピン初訪問は、前の年にアキノ大統領が国賓として来日し、訪問を強く要請したことで実現しました。それまで反日感情が根強く、歴代の大統領が来日しても、天皇の訪問は実現していませんでした。実現した背景には、国交正常化60周年の節目での強い招請があったこと、大統領の退任が近づいていたという事情があります。

また、アキノ大統領の母親コラソン・アキノ氏の存在もあったと思います。昭和の終わりから平成の初めにかけて大統領を務めたコラソン氏は、独裁者だったマルコス大統領の政敵として暗殺された夫の遺志をついで大統領に就いた人です。1986(昭和61)年、国賓として来日しましたが、この時、息子のベニグノ・アキノ氏も同行していて、昭和天皇から「お母さんをお助けになって」と声をかけられています。2016年の訪問には、親子2代にわたる交流も背景にあったと思います。

訪問の年の8月、上皇さまは退位の意向を示されましたから、この機をおいてない、と迫られるような思いだったんだろうと思います。

今日、フィリピンは〝親日国〟と言われますが、先の大戦での110万人の犠牲の上に、明日を見据えて日本を赦し、友好関係を育んでくれた国です。
上皇ご夫妻は、戦争のことが忘れられていく中で歴史に光を当て、フィリピンの人たちに感謝の気持ちを表し、海外での在位中最後となる慰霊につとめられたのだと思います。

――上皇ご夫妻の「過去のことを忘れてはいけない」という思いと、同時に次世代へつないでいく平和への願いという強い思いが貫かれた旅だったのだなと感じました。


【井上茂男(いのうえ・しげお)】
日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。