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両陛下で訪ねた「平和の礎」 込められた沖縄の思い【皇室 a Moment】

2022年8月27日 11:53
両陛下で訪ねた「平和の礎」 込められた沖縄の思い【皇室 a Moment】

ひとつの瞬間から知られざる皇室の実像に迫る「皇室 a Moment」。今年は沖縄が本土に復帰して50年。27年前、戦後50年にあたって作られた「平和の礎」に込められた沖縄の人々の思いを日本テレビ客員解説員の井上茂男さんが現地を取材しました。

■沖縄戦の犠牲者24万人の名前が刻まれた「平和の礎」

――こちらはどういった場面でしょうか。

1997(平成9)年7月、皇太子ご夫妻時代の天皇皇后両陛下が、沖縄本島の糸満市にある南部戦跡を訪ね、平和祈念公園の中の「平和の礎(いしじ)」に足を運ばれた時のシーンです。

「平和の礎」は、沖縄戦で亡くなった犠牲者24万人の名前が刻まれた記念碑です。沖縄は1945(昭和20)年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸し、「鉄の暴風」とも呼ばれた猛烈な爆撃や集団自決などで県民の4人に1人が犠牲になりました。

日本軍の組織的な戦闘が終わった6月23日は沖縄の「慰霊の日」です。その日に多くの人たちが訪れるのが「平和の礎」です。今年は沖縄が本土に復帰して50年の節目の年ですが、新型コロナが落ち着いていた7月初め、「平和の礎」を取材しました。

沖縄本島の南部に県庁所在地の那覇があります。沖縄戦では、米軍は読谷村から上陸し、住民や軍は南の糸満へと追いやられていきました。住民たちが逃れ、司令官が自決した半島の南端が摩文仁です。そこは今、平和祈念公園になっていて、「国立沖縄戦没者墓苑」や「平和の礎」、そして数々の慰霊碑があります。「ひめゆりの塔」も近くにあります。

■戦後50年にあたって作られた「平和の礎」

「平和の礎」は27年前の1995(平成7)年6月、戦後50年にあたって作られました。沖縄戦終結の日に、当時の村山首相ら三権の長や、駐日アメリカ大使らが出席して除幕式が行われました。

天皇皇后両陛下だった上皇ご夫妻は、除幕から間もない「平和の礎」をご覧になっています。この年の7月から8月にかけて、ご夫妻は、戦後50年の「慰霊の旅」として長崎や広島、沖縄を訪問されました。日帰りで訪ねた沖縄では、「国立戦没者墓苑」に拝礼し、「平和の礎」を訪ねられました。

除幕から2年後の1997(平成9)年7月、今の天皇皇后両陛下が「農業青年交換大会」で沖縄を訪れ、猛暑のなか、戦没者墓苑に供花し、「平和の礎」を25分にわたって視察されました。天皇陛下は浩宮時代から沖縄を5回訪問されていますが、皇后雅子さまはこの一度です。

この場面でご覧になっているのは、沖縄本島の中部、読谷村で亡くなった方々の名前が刻まれた石碑です。この時、お二人をご案内したのが、沖縄県の知事公室長だった粟国正昭(あぐに・まさあき)さんです。今回の取材で粟国さんにその時の両陛下のご様子を伺いました。

■家族で抱き合い手りゅう弾で「集団自決も」…沖縄戦の悲惨さを両陛下に伝える

(井上解説員):「お2人は相当重いものを受け止められたんでしょうね、ここで」

(粟国さん):「お顔を見ても非常に深刻なというか真剣なお顔をされていましたので、気持ちとしては重苦しいんだなということは表情から読み取れたんですけれど。ましてや皇后さまはほとんどご質問はありませんでした。一緒にうなずいているぐらいですね」

(粟国さん):「読谷村といえば沖縄戦の沖縄本島への最初の上陸地点で、そこがアメリカの兵隊が上陸して、“一方は南部の方に行く、一方は北部の方に行く”と真ん中でちょん切られたんですよね。そういう意味では読谷村は最初の犠牲の村。常々アメリカ軍が来たら女性はみな強姦されるとか、いろんなことを吹き込まれていますから、皆さんパニックになったんでしょうね。早くそのときは自分たちで始末しなさいと、アレをみな渡された。」

(井上解説員):「手りゅう弾ですか?」

(粟国さん):「手りゅう弾。お互いに家族抱き合って手りゅう弾で亡くなってというような、今からいえば非常に残酷な亡くなり方をされていますけれども。そういう意味では、手りゅう弾の話までしたかどうかわかりませんが、そういうことで「集団自決がありましたよ」ということを申し上げました」

「平和の礎」に刻まれた24万人の中には、お名前が特定できない人もいらっしゃます。写真のように「誰々の長女」とか「誰々の子」と記された名前もたくさんありました。

(井上解説員):「お名前が特定できないわけですね」

(粟国さん):「そうです、あるいはまだ名前を付ける前にお亡くなりになったのか。これがいっぱいあるんですよ、見ましたらね。それから沖縄の戦争の悲惨さを表すような、沖縄の所帯で全滅した所帯がかなりございますよということで、ある特定の例示を挙げて、糸満のご出身だったと思うんですが指し示して、この人たちは一家全滅しました、こういう方がいっぱいございますということを申し上げました。」

■「平和の波 永遠なれ」…沖縄戦を風化させず、平和発信の場に

「礎(いしじ)」という読み方は“沖縄の言葉”だそうです。「礎」は、当時の大田昌秀知事の提唱で、し烈な沖縄戦を風化させることなく、世界へ平和を発信する場として作られました。その特徴は、国籍を問わず、戦闘に直接関わった軍人、巻き込まれた住民たちの区別なく、沖縄戦のすべての戦没者の氏名が母国語で刻まれていることです。名前が刻まれている犠牲者は24万人に上ります。今も「この人が抜けている」といった声が寄せられ、追加されています。

先端の「平和の広場」から入り口に向かってメイン通路を見ると、右に沖縄県出身者の方々の名前が刻まれた碑、左に他の都道府県出身者、その奥に外国出身者の方々の名前が刻まれた碑が並んでいます。

「平和の礎」は海に面しています。多くの方々が追い詰められて亡くなった悲しい海です。「平和の礎」に込められた思いは「平和の波 永遠なれ」というもので、平和の波が世界に向けて広がるように、名前が刻まれた100を超す碑が、波の形に似せて「く」の字形に配置されています。

その突端には円形の「平和の広場」があり、中央に「平和の火」があります。その火は、被爆地・広島の「平和の灯」と、長崎の「誓いの火」と、沖縄戦で米軍が最初に上陸した阿嘉島で採火した火を合わせています。そして、メイン通路から平和の火に伸びる中心線は、沖縄での組織的な戦闘が終わった6月23日の、日の出の方位に合わされているそうです。

――悲しい場所のはずなのにとても美しい海で、これを見ますと平和を願わずにいられません。国籍を問わず、軍人・民間の区別もなく24万人もの方の名前を刻む。そこには、大きな苦労があったように感じます。

■米軍や台湾・韓国・北朝鮮などにも協力を求め名簿を作成

当時、完全な名簿はなく、また全滅した一家も多くて、名前の特定が大変だったようです。今年、「平和の礎」に関わった県の幹部らが、『沖縄「平和の礎」はいかにして創られたか』(編著者:高山朝光、比嘉博、石原昌家 高文研)という本を出しました。それを読みますと、沖縄県内の市町村に協力してもらって聞き取り調査を進め、その結果を新聞などで公表して漏れを正してもらい、米軍や台湾、韓国、北朝鮮などにも協力を求めて名簿を作成していったそうです。

日本は朝鮮半島を植民地にして「創氏改名」を進めましたから、朝鮮半島で集めた名簿は日本名で、これを母国語の氏名に戻してもらうなど、様々な作業がそこにあったそうです。

沖縄戦で家族5人を亡くされた照屋苗子さんという方がいらっしゃいます。遺族の代表として上皇ご夫妻にも何度か会われている方で、今回の取材で当時のことをうかがいました。ご縁の出来た人のご家族の名前があると違うんです。文字を指でたどって、手を合わせたくなります。

沖縄県は「記念碑」として作りましたが、名前が刻まれた「礎」には魂が宿ると思われるのか皆さん花を供え、手を合わせます。今回、初めてその気持ちがほんの少しですがわかったように思いました。

――たとえこの場に体はなかったとしても名前が彫られて、その名前を触れることができるのは、遺族の方にとって「平和の礎」は大きな存在なのかも知れませんね。

■「平和の礎」は琉球沖縄の思想「命(ぬち)どぅ宝」を表したもの

皇后雅子さまが「平和の礎」を訪ねた時の印象を歌に詠まれています。「青」というお題だった平成11年の歌会始に出された歌です。

「摩文仁なる礎の丘に見はるかす 空よりあをくなぎわたる海」

摩文仁の丘から見える真っ青な海を詠まれた歌です。両陛下を案内した粟国さんもこの歌を知って、皇后さまがこの場所で感じられたことの深さに感銘を受けたと話していました。

『沖縄「平和の礎」はいかにして創られたか』という本の中にこんな記述がありました。

『「平和の礎」とは、生きとし生けるすべての生き物の生命を慈しむ「命どぅ宝」という、琉球沖縄の人の共生の思想を表出したものでもある』

「命(ぬち)どぅ宝」は天皇陛下が5月の「沖縄復帰50周年記念式典」でも使われた「命こそ宝」という意味の沖縄の至言です。「平和の礎」に込められた沖縄の思いを噛みしめ、心にとどめていたいと思います。

――戦争を知る世代が年々少なくなる中で、戦争を知らない世代が自分たちの国で起きた「沖縄戦」、そして「平和の礎」などについて理解を深めて、平和の波がどんどんと世界に向けて広がってほしいと祈るばかりです。

【井上茂男(いのうえ・しげお)】
日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。