【戦後80年】 「1945年1月9日 空を見れば友軍機ばかりで退屈だった...」 飛行機好きの16歳少年が本音を書き綴った“B29空襲日誌” 色鉛筆で描いた米軍機の航路と空襲
当時16歳だった少年が書き綴った「B29空襲日誌」。空襲に逃げ惑う日々が細かく記されている一方、そこには飛行機に想いを馳せる“素直な気持ち”も書かれていた。“あの時代”を生き続けた少年のリアルな本音と日常。空襲日誌から、令和を生きる私たちが受け取るべきこととは。
■B29による空襲を記録した“少年の日誌”
名古屋市瑞穂区にある『名古屋市博物館』に寄贈されている一冊のノート。
背表紙もボロボロで、用紙も茶色に日焼けしている。学校で使う予定だったのか、表紙には「国語」という文字が書かれているが、その文字は線で消され、“B29空襲日誌”というタイトルに書き換えられていた。
表紙をめくると、アメリカ軍の爆撃機「B29」のイラストが目に飛び込んできた。内容は、太平洋戦争末期に名古屋市などを襲った空襲。その“日誌”は、表やイラストを交えながら、4か月にわたって綴られていた。
「戦争に関する資料は多いが、少年の手によって、これほど冷静に正確に心情も交えながら書かれているものは珍しい」
当時(2019年)寄贈を受けた同博物館の担当者は驚いたという。寄贈したのは、名古屋市南区に住んでいた二村允さんだ。
一体どのような人物なのか。
大阪府茨木市に住んでいる二村さんのもとを訪ねた。玄関のチャイムを鳴らすと、笑顔で迎えてくれた。現在96歳の二村さんは、近くに暮らす娘に支えられながら暮らしていて、趣味の囲碁などに出かけることもあるという。
◇二村允さん(96)(以下:二村さん)
「これが旧制中学4年生で繰り上げ卒業の写真。着る物も少なく、腕章が腕を巻くだけの余裕がなかった」
見せてくれたのは、1945年3月と書かれた、当時16歳の二村さん自身の写真。まさに太平洋戦争末期、二村さんが空襲日誌を書いていたころの姿だ。
◇二村さん
「日記をつける習慣があったので、その延長で書いていましたね」
80年前、二村さんは何を思い、「B29空襲日誌」を書き続けていたのか。
■色鉛筆で描いたイラストと無邪気な本音
名古屋への初空襲は1942年に「B25」によって行われたが、「B29」による本格的な空襲が始まったのは、1944年12月。この時から、二村さんは空襲日誌を書き始めた。当時、父親が戦争で留守のなか、名古屋市南区で母親と妹2人の4人で暮らしていたという。
1944年12月13日の日誌には、二村さんらの頭上を通っていった米軍機の様子や名古屋市東区にあった戦闘機のエンジンを製造する軍需工場が爆撃されたことが書かれている。そうした中、「二時間以上モ上ヲ見テ居タノデ首ガ痛クナッタ」というような、当時16歳だった二村少年の体験談やどのように米軍機が飛行していったのかが、イラスト付きで記されていた。
1945年1月3日の日誌には、勤労動員で港区にあった『住友金属工業』で働いているときに空襲警報が鳴り、工場を出て避難しようと逃げ惑う行動が細かく記され、「北ニ逃ゲナイデヨカッタト思ッタ」「敵機ノ通ッタアトハ大火事ダ」など、当時の心境も書き残されていた。
命の危機が迫る場面が多く記録されている一方、1月9日の日誌には、二村少年の“子どもらしい”無邪気な一面が垣間見える言葉も。飛行機が好きで、好奇心旺盛だったという二村少年。この日の日誌には、「空ヲ見レバ友軍機バカリノヤウナノデ退屈デアッタ」と、飛行機に想いを馳せる素直な気持ちが綴られていた。
また、2月15日の日誌には、米軍機の飛行経路を色鉛筆で描いた“イラスト”も残されていた。飛行経路は米軍機ごとに色分けされており、二村さんによると「当時、実際に空を見上げ、ラジオなどの情報も確認しながら作成したもの」だという。
◇二村さん
「米軍機の様子を見ていると、次第にどのあたりを飛んでいるか推測ができるようになった」
約30ページにわたり書かれた日誌は、名古屋で空襲がより激しくなった3月18日で途切れていて、鉛筆で「多過ギテ書キ切レヌ」という言葉で締めくくられていた。
■空襲の日常化、心を蝕んでいった“壮絶な続き”
1945年6月9日、名古屋を襲った「熱田空襲」だ。
軍用機のエンジンなどを製造していた『愛知時計』や、二村さんが勤労動員で働いていた航空機部品を製造する『住友金属工業』が空襲の被害にあったのだ。
◇二村さん
「工場に歩いて向かう途中に空襲警報が鳴って、慌てて寮に引き返そうとするとB29がバーっと出てきて、バババババー!と爆弾を落としていった」
二村さんは難を逃れたものの、寮に戻ると金沢から勤労動員されていた同じ寮に住む学徒の姿が見当たらなかった。翌日工場に行くと、口から血を流し遺体置き場に置かれている姿を目の当たりにしたという。
◇二村さん
「何とも言えない…何も感じなかった。死んじゃったぐらいの気持ち」
「異常ですね…神経がなくなるというか完全に麻痺」
二村さんは下を向きながら、当時のことを振り返った。60回以上にも及んだ名古屋への空襲。命さえも奪われる被害は“日常”となり、二村少年の心までも壊したのかもしれない。
■戦後80年 私たちが受け取るべきメッセージとは
◇二村さん
「戦争はあってはならないことですね。戦争は起こしてはならない…と言ってもさけられないね…」
どこか寂しげに、戦争への思いを語る二村さん。頭をよぎるのは、ウクライナとロシアの情勢だ。
4か月にわたって、16歳の少年が書き綴った「B29空襲日誌」。その中身には、令和を生きる私たちが絶対に忘れてはいけない“戦争の歴史”と、人の命と心を奪っていった“日常”が記されていた。
戦後80年となる2025年。これからが“戦前”にならないよう、戦争を経験した人たちの証言やメッセージを受け取り、改めて戦争を見つめ直すことが大切だ。