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根こそぎ奪われた“300年の伝統” 福島の窯元が抱く憤り─「1%でもいいから」響け再建の音

2024年3月1日 17:31
根こそぎ奪われた“300年の伝統” 福島の窯元が抱く憤り─「1%でもいいから」響け再建の音
大堀相馬焼

自分で数えて九代目。300年以上守ってきた伝統の窯(かま)だった。長男も後を継ぐべく戻ってきて、伝統を伝えていく予定だった。

「原発の爆発前で。2、3日くらいの避難かなという気持ちで、着の身着のまま家を出たんだ」

そのまま窯の灯をともせなくなるなんて、思いもしなかった。

近藤学さん(70)は、原発事故により帰還困難区域に指定されていた福島県浪江町大堀地区に伝わる、大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)の窯元・陶吉郎窯(とうきちろうがま)の当主だ。避難先でも工房を構え、作陶を続けてきた。やれることはやってきた。ただずっと、割り切れない思いがあった。自分は作家ではなく、伝統の継承をする者なのに―。

あれから13年目となるこの春、故郷で再建ののろしを上げる。
この地で焼きたいものがある。この地で、響かせたい音がある。

【原発事故によって突然失われた伝統】

静かな工房に響く、ピーン、ピーンという不思議な音。

「貫入音(かんにゅうおん)っていうんだ」
「焼きあがって窯から出して外気に触れることで『ひび』が入るんだ」

「伝統の音」について教えてくれるその口調は、優しくもあるが、芯の強さを感じさせる厳しさもある。焼き物にひびが入っては失敗と思われがちだが、大堀相馬焼はこの独特な「ひび割れ模様」が特徴である。「粘土」と表面を覆う「釉薬」の収縮率の差からできる器全体を覆うひび割れ模様は「青ひび」と呼ばれ、贈り物や縁起物としても親しまれてきた。

その起源は江戸時代中期の元禄3年(1690年)とされ、多い時には100戸を超える窯元が存在した。国の伝統的工芸品の指定も受け、伝統は300年以上にわたり受け継がれてきた。しかし、2011年3月11日を境に、この地での伝統は途絶えざるを得なかった。原発が水素爆発を起こし、放射性物質が飛散した。原発から北西約10キロに位置する大堀地区は、放射線量が高く人が住むことが制限される帰還困難区域に指定された。近藤さんの陶吉郎窯を含む20数軒あった窯元も、この地での作陶をあきらめることになった。

「『大堀』相馬焼なので、その土地を離れるということは致命傷。原子力災害はとんでもない。形のあるものはもちろん、形のない伝統や歴史までも根こそぎ奪われてしまったことが悔しい」

2010年秋には、長男の賢さん(41)が大堀に帰ってきて、親子での作陶を始めていた。大学で陶芸を学び、数々の美術展で表彰されるなど、陶芸界の期待の若手とされていた息子とともに、自らの窯にとどまらず、大堀相馬焼そのものの未来を描いていたころだった。

「親として一番伝えたかったことは大堀相馬焼の精神的な部分。窯元が集まっている大堀の地で仕事をすることで自然と身につくことも多かった。大堀の窯で伝えたいこともたくさんあったが、それもできなくなってしまった」

【もう帰れない、、避難先での再建】

先人から受け継いだ土地や窯、作品だけではなく、多くを失った近藤さん。制作には欠かせない粘土や釉薬など、わずかな原料を手に50キロ離れたいわき市に避難し、仮住まいで作陶を続けてきた。

「帰還困難区域になり、浪江町大堀にはもう帰れない。ここに窯を構えて、本格的にいわき市で大堀相馬焼を再び焼こう」

そう自分に言い聞かせるしかなかった。避難から7年後の2018年にいわき市に新たな窯を構えた。

【伝統を繋ぎ守るだけではない】

ただ、新天地での作陶活動は困難を極めた。特に課題となったのが、大堀相馬焼の特徴である「青ひび」を再現するための原料の確保だ。浪江町で採っていた「釉薬」の原料は放射線量が高く使えないため、代わりの原料を組み合わせては、試行する日々が続いた。

「窯などを新しく揃えてもすぐに使いこなせるわけではない。道具を何年も何年も使いこなして、初めて自分のモノになる。納得できる作品を作るまで時間はかかった。」

ただ、近藤さんの作陶意欲は、原発事故につぶされることはなかった。大堀相馬焼の伝統技法だけではなく、さらに発展させた作品作りにも挑戦している。一つの素材に別の素材をはめ込む象嵌(ぞうがん)技法を用いた作品は2020年に日本美術展覧会いわゆる「日展」で特選を受賞するなど高い評価を受けている。しかし、近藤さんはこう語る。

「(私は)個人の作家ではなく、『伝統の継承をしている身』と考えているので」

先人たちが、大切に、大切に、積み重ねてきた伝統を、自分も積み重ねていくという覚悟を強く感じさせた。

【伝統の証 登り窯】

伝統を後世へ繋いでいくため、近藤さんが大切にしていることが「登り窯」での作品作りだ。便利なガス窯や電気窯などを使った制作が主流となる中で、登り窯では薪を使った昔ながらの製法で作品を焼き上げる。

「伝統を繋ぐという意味で色々な定義や捉え方はあるが、私としては形あるものの伝統のシンボル的なものがこの登り窯だった」

大堀にいたときも年に1度は登り窯で作品作りを続けてきた近藤さん。いわき市に拠点を移す際も、伝統をつなぐシンボルとして、工房の隣に幅2メートル、奥行き10メートルの登り窯を設けることにした。
この日は近藤さんの長男で後継者の賢さん(42)が登り窯の中に一つ一つ作品を並べていた。スイッチ一つで焼き上がりを待つ電気窯などと違い、温度管理や炎の調整など、登り窯での制作には手間も時間もかかるという。

賢さん「大変だが、これでしかできない作品ができる。薪が燃えて灰になって、器に付着するとガラス質になる。それが色々な模様や景色になる」

800個ほどの作品を窯に入れ終えたら、いよいよ火入れ。窯の温度は1300度にも上る。火を絶やさないため6日間にわたり薪をくべ続けないといけないため、日中は学さんが、そして夜は賢さんが交代交代で作業を行う。そして親子で作り上げた作品の数々は、窯出し後、工房の前で販売され、県内外から多くの人が買い求める。

学さん「伝統継承に当たっている身とすればこういった伝統の古来の窯も後世に残していかなければならないという気持ちでやっている」

【12年ぶりに故郷の避難指示が解除 伝統の継承とは?】

いわき市での作陶活動も10年以上が経過し、新たな窯での制作も軌道に乗ってきた陶吉郎窯。ただ、近藤さんは伝統の継承にある葛藤を抱えていた。

「致し方ない状況とはいえ、いわき市で大堀相馬焼を作っていて、本当に伝統の継承につながるのかという思いはずっと持っていた」

大堀の地に根付き300年以上にわたり受け継がれてきた大堀相馬焼。はたして大堀の地を離れて作品作りを続けていて伝統継承といえるのか。学さんは答えを出せずにいた。
こうした中、2023年3月、浪江町で大堀地区を含む避難指示が12年ぶりに解除されることになった。避難から10年以上が経過した故郷は震災当時のあの日のまま。通り沿いに並ぶ窯元の工房には割れた陶器が無残な姿で残されている。近藤さんの工房や伝統の窯も雨漏りの影響などでそのまま使うことはできない状況だった。

「立ち入りが自由にできないから修復もできない。建物がどんどん朽ちていく、その様子をただ見ていることしかできなかった。原発事故さえなければ。赤く錆びた窯を見るたびに怒りと無念さが込み上げてくる」

学ぶさんは決断した。

「大堀相馬焼という伝統を考えると、やっぱり大堀でやらないと、本来の姿ではないかな」

使えなくなった窯や工房を解体した。新たな窯をこの地に再建するためだ。そして、避難指示が解除されてから4か月後の2023年7月。更地となった工房の跡地には近藤さん親子の姿があった。真夏の炎天下の中、新たな工房と窯の再建に向けた地鎮祭が執り行われた。故郷での再建に向けてようやくスタート地点に立った。

「あっという間なんだよ、12年だよ。ずいぶん年も取りました。ただ伝統の継承はやはり大堀にしかないという強い気持ちでいたので頑張っていきたい」

ことし1月には新たな工房も完成しガス窯が搬入された。3月からはこの地で大堀相馬焼を再び焼き、将来的には商品を販売するお店も設ける予定だ。今後、後継者として陶吉郎窯、そして大堀相馬焼の伝統を引き継いでいくことになる息子の賢さん。不安と期待の中、窯の搬入を見届けた。父の思いを継いでいくことになる賢さんは、思いを新たにする。

「まだまだ不安もありますし、大変なこともこれからあると思うが、新しい一歩を踏み出すことができるという思い」

今後は、浪江町といわき市を行き来しながらの2拠点で陶芸活動を続けていく。

「伝統継承と言葉でいうとかっこいいが、生業として成り立つか、そこが一番厳しい」

父の学さんはそう語るが、大堀での後継者の受け入れや新たな作品作りを計画するなど前を向いている。

「踏み出さないと可能性はゼロだが、私が戻ることで大堀相馬焼の伝統がつながる可能性が1%でも2%でも出てくればありがたい」

ピーン、ピーンと甲高く響く貫入音。一度は途切れた伝統の音が再びこの地で響くまで、窯元の挑戦は続く。

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