「つなぐヒロシマ」 若者へ託す未来 亡き妹を思い被爆体験の証言つづける 植田規子さん

読売新聞と共同で、被爆者の証言を記録している『つなぐヒロシマ』です。原爆で亡くした妹を思い続け、若者らに証言活動を続ける93歳の女性についてお伝えします。
広島市東区に住む植田規子(うえだ・のりこ)さん、93歳です。
■植田規子さん
「毎朝、お茶をあげるんですよ。みんな水を飲みたかったのよね、むっちゃん。これが妹でね。」
語りかけるのは、2歳下の妹、睦子さんです。79年前の8月6日以降、行方がわかっていません。
■植田規子さん
「妹とね仲良しだったのよ、私は。」
3姉妹の長女と二女。1945年、ふたりは県立広島第一高等女子学校(現・県立広島皆実高校)に通っていました。
■植田規子さん
「2階の4畳半が勉強部屋でね、2人が机を並べて勉強していたんですよ。お風呂から上がって、浴衣を着て散歩に出た途中で「あんたの浴衣の方がいいね、取りかえよう」って、裸んぼで浴衣を取りかえたりね。」
仲の良かった姉妹の絆を断ち切ったのが、原爆でした。
■植田規子さん
「妹は土橋の作業場。いまだに行方不明。どこに行ったかわからない。」
妹が向かった「建物疎開」の場所のがれきの下に残されていたのは、制服でした。ポケットには、ハンカチとテストの答案が入っていました。
■植田規子さん
「たぶん作業現場について、夏服を脱いで。それがまた出てきたの。父が見つけたの。」
一方、植田さんは学徒動員で、爆心地からおよそ1.8キロの西区観音にある印刷工場にいました。
■植田規子さん
「原爆の熱風とか光線とかは、観音中学校の木造2階建ての校舎が防いでくれていたのね。私たちは、全員火傷もしなかったし、ケガもしなかったし。」
己斐の山に逃げ、一夜を明かしました。翌日、山を下り市内を歩いていると、広島市の職員に呼び止められ、罹災証明を受け取ります。そこで、あるものを目にします。
■植田規子さん
「たまたま、そこに父のメッセージが置いてあったんです。「高須のいちじく農家の納屋へ逃げている」というメッセージ。だから、今日私が元気でいられるのは、本当にラッキーの積み重ねと思います。」