92歳被爆者の戦後 基地の島・沖縄とヒロシマ
原爆投下から78年余り。被爆地・ヒロシマや被爆者の今と将来を探る「つなぐヒロシマ」。今回の主人公は、アメリカ統治下の時代から沖縄に暮らす、92歳の被爆者。令和5年の今、被爆体験を「基地の島」沖縄で語れるのはこの女性を含めごくわずかだ。
コバルトブルーの海が広がる沖縄県・うるま市。高台にある施設にその女性を訪ねたのは2023年4月だった。雛世志子さんは92歳。沖縄に移り住んで73年になる。13歳で迎えた、あの夏の日。爆心地から6キロ余りの自宅近くで、空を見上げた瞬間だった。
■雛さん
「飛行機の音がするわけ。日本の遊軍機だと思って、何かね?と思って見てたわけさ。そしたらおかしい格好(動きを)したから、ピカーっと光って、ドカンとしたわけさ。高く舞い上がった煙がね、薄紫色のように見えた」
その数時間後、知人を探そうと入った市街地。そして被爆した。父親も程なくして市内に入り被爆。戦後間もなく、一家で移り住んだ故郷の奄美大島でなくなった。朝鮮戦争が起きた1950年。18歳になった雛さんは、仕事を求めて海を渡った。そこは、原爆を落とした国アメリカが統治する沖縄。
アメリカ空軍の嘉手納基地に隣接する、歓楽街・コザ。
■雛さん
「シャッターが下りてるところはみんな飲み屋だったはず。外国人がいつもいっぱい」
ベトナム戦争が激化した1960年代。出撃基地となった沖縄の夜の街は、ドル札の束を持った兵士達で賑わっていた。コザの一画に、半世紀以上にわたり営業を続けるバーがある。
■雛さん
「こんにちは。お久しぶりです。覚えています?」
雛さんは30代の頃、この場所にあった別の店で働いていた。当時の仕事は、ホステスやバーテンダー。客はこれから戦地に趣く兵士たちだった。
■雛さん
「私の場合は学もないし、あれだから外国人のいるところしか働けないというかそれしか仕事がなかった」
20歳のとき、生き別れたアメリカ兵との間に一人娘を授かる。そして、将校の家でメイドをしながら昼夜なく働いたと言う。
■雛さん
「前は私もおしゃべりができなかったもんだから。みんな本に書いて」
雛さんが被爆体験を語り始めたのは、70歳を過ぎた頃からだった。しかし、20万人余りの犠牲を出した沖縄で、ヒロシマの体験を語ることには、ためらいがあったと言う。
■雛さん
「私は顔見たらナイチャーだから沖縄の人に嫌われよった。私自身というか日本の兵隊さん、兵隊さんに相当やられたって、沖縄の人は。普通だったら兵隊が来て、こっちの住民を助けるのがほんとさ。私たちもそう思ってたさ。だけど、そうじゃなかったというのは私もこっち来て聞いたわけ」
3か月以上にわたり繰り広げられた地上戦。アメリカ軍の無差別攻撃に加え、集団自決を強要したり住民を殺めた日本軍。県民の4人に1人が犠牲になっていた。毎年、地元の団体が開く「原爆展」。沖縄では、他の地域とは違う反応があると言う。
■沖縄原爆展を成功させる会 源河朝陽さん
「沖縄戦を体験した人たちの中には広島は1発、2発でしょ、長崎も。沖縄は3か月も続いたんだよと。だから広島、長崎の原爆よりも沖縄戦は大変だったんだというふうな認識はやっぱりあったわけですね。(その中で)被爆者が自らの体験を語ることは非常に難しい」
雛さんは、一時期、被爆証言に距離を置いていた。
この日訪ねたのは、懐かしい人。間もなく94歳になる屋良鶴子さんだ。コザで雛さんが働いていた店を、経営していた。
■雛さん
「懐かしいあれ(写真)がいっぱいある。こっちねもね、これもあるし」
■屋良さん
「よく覚えてるよ、私。でもね、考えてみたら戦争も味わってその後もあれしてね。いろんな経験をしたのは幸せと思うよ」
屋良さんが沖縄戦を体験したのは、15歳の時だった。
■屋良さん
「(沖縄本島に)4月1日に上陸しましたよね。みんな一緒に夜中から鍋を下げてヤンバル(沖縄本島北部)をずっと歩いて。3日ぐらいかかりました」
「ガマ」と呼ばれる洞窟に身を隠していた屋良さん。アメリカ兵に投降を促され、死を免れていた。
■屋良さん
「ジープに乗せられてキャンプ(収容所)に連れて行かれたの。捕虜も見ましたよ。死んだおばあちゃんやウジがわいた人たちも。それをみんな私たちが世話をしたんですよ。なんでこんな民間の人たちが家を捨てて、こういう惨めな思いをしなくちゃいけないのかとは考えましたね」
それは、雛さんが初めて聞いた屋良さんの辛い体験だった。
沖縄が深い祈りに包まれる「慰霊の日」。
■子ども
「戦争が二度と起こりませんように。」
■女性
「こっちが長男、姪っ子。次男、三男まで。」
早朝から子や孫と共に、戦没者の名前を刻む「平和の礎」を訪れる遺族たち。その名に何を語りかけるのか。
原爆ドーム終戦から78年余り。沖縄は、今も全国のアメリカ軍施設の7割がある、「基地の島」だ。雛さんは2023年の今年、再び子どもたちに自らの体験を語り始めた。
■雛さん証言
「この写真のように焼けただれた人も本当におばけみたいな人がふらふらしながら歩いている」
■雛さん
「子どもとかね、孫たちはどうなるのか。心配はある。だけど何もできないさ私たちは。もうこうして語るしか」
「こんにちは。どこからいらっしゃいました?知り合いの人とかいます?私の孫みたいだからついつい言葉かけちゃって。ありがとう」
基地の島・沖縄で戦後を生き抜いてきた、92歳の被爆者…。生ある限り、ヒロシマの記憶を語り続ける覚悟だ。
【2023年11月21日 放送】