「物言わぬ語り部」…津波にのまれ殉職した警察官 弔うお地蔵様 #知り続ける
14年前、宮城・気仙沼市で津波にのまれ殉職した警察官がいます。
千田浩二さん(当時30)。
最後まで住民に避難を呼びかけた千田さんの姿は、震災を知らない世代にも受け継がれています。
気仙沼市本吉町の大谷地区。
海から500メートルほど離れた小学校の近くに、小さなお地蔵さまが立っています。
学校に向かう子どもたちは足を止め、手を合わせます。
男の子
「帰るときとか行くときとか、毎日会った時には手を合わせています」
「逃げろー!大きい津波が来るぞ!と津波を伝えて、自分を犠牲にしてまで皆さんを助けた気仙沼の英雄です」
お地蔵さまは、津波の犠牲となった警察官を慰霊するために建てられたものです。
千田浩二さん(当時30)。
気仙沼署・大谷駐在所に勤務していた千田さんは、あの日 住民に避難を呼び掛けようとパトカーを走らせ、津波にのまれました.
「おはよう」
この地域の自治会長を務める鈴木治雄さん。
毎朝、通学路に立ち、子どもたちを見守っています。
治雄さん
「(Q.交通整理いつからやってる?)大体20年くらいになりますかね」
千田さんと親交があった治雄さんは、震災の翌年 妻の美和子さんと一緒にお地蔵さまを建立しました。
治雄さん
「笑ってるんですよ。ずっと、笑っているの」
美和子さん
「子どもたちを優しく見守ってくれているという、そんな雰囲気のお地蔵さまがいいかなと思って、あえて豪華にしないで」
千田さんがこの地域に赴任したのは、震災が起きる1年前。
気さくな人柄で、すぐに地域に溶け込んだと言います。
美和子さん
「お人柄もそうだし、イケメンだったし、優しいし」
地域の祭りにも、積極的に参加。
演芸会では、人気ドラマの刑事役として観客を沸かせ、朗らかで明るい性格が大谷の人々に受け入れられました。
美和子さん
「この辺だと、おまわりさんのことをだんぽさんと言うんだけど、最高のだんぽさんでした」
会えばにこやか、物腰柔らか。
しかし、そんな千田さんがあの日、一変します。
2011年3月11日、気仙沼には最大19メートルを超える津波が押し寄せ、大谷地区も約7メートルの津波に襲われました。
鈴木さん夫婦は一目散に高台へ。
しかし、住民のなかには避難しない人が多くいたといいます。
美和子さん
「大きな津波が来るという思いはなかったかもしれない。津波はその程度なものだという 根拠のない安心感があったかもしれない」
千田さんは、住民の命を守ろうとパトカーで沿岸部へ。
治雄さん
「すごい形相で、避難を呼び掛けてた。最後は命令するような形で。自分の命をかけて呼び掛けたんだと思いますよ」
避難を呼び掛け多くの命を救った千田さんは、このお地蔵さまが立つ場所の近くで発見されました。
震災から14年。心のどこかに千田さんを思う気持ちが残るのは住民だけではありません。
菅原仁刑事官
「あの一瞬で…亡くなるのが残念無念でならない」
今でも思い出せば、こみ上げる気持ちを抑えられないほどの経験でした。
震災当時、気仙沼署に所属し、千田さんと同僚だった菅原仁さんです。
辛い記憶にフタをしていましたが、退職を前にした今、自らの経験を次の世代に伝えなければという思いに変わったと言います。
菅原仁刑事官
「震災を経験していない警察官が4割を超えている状況、 震災を経験していても風化を懸念される状況にある。体験したものが伝える責任を感じる」
会場に集まった多くの若手警察官らを前に、菅原さんは当時のことを語りかけます。
菅原仁刑事官の講話
「私は刑事でしたんで、検視を担当しました。ご遺体の収容所として指定された学校の体育館は、1日でいっぱいになりました。刑事としてご遺体を見ることには、慣れていました。 しかし、次から次へとご遺体が収容されてくる。残された家族を目の前にすると、さすがにグッとくるものがありました」
千田さんと再会したのは、遺体安置所となっていた体育館でした。
菅原仁刑事官の講話
「私が検死しました。本当にその顔はさぞかし無念だったという記憶です」
震災を経験していない若手の警察官に、菅原さんは伝えたいことがあります。
菅原刑事官
「警察官が亡くなれば、救える命も救えないんだよと。明日からの治安を誰が守るんだ。若い人たち君たちの命も、君たち自身、両親、家族、交際相手等々大切な命なんです。災害の犠牲にならず、必ず生きよ」
必ず、生きよー。
千田さんから受け継いだメッセージです。
菅原仁刑事官
「亡くなった人たちも、震災を教訓として若手には命を大切にしてほしい、と思ってるのかなと」
地域に愛され同僚に惜しまれ、命がけで住民の避難を促した千田さん。
お地蔵さまは、今も地域を見守り続けています。
美和子さん
「心のよりどころ。何があっても行って手を合わせる場所になってほしい。物言わぬ語り部」