【2次避難】東日本大震災の時はどうだった?
石川県などは災害関連死を防ぐため、なるべく環境の整った施設で過ごしてほしいと、積極的な2次避難を呼びかけている。
東日本大震災で2次避難を行った自治体の一つが南三陸町。
町内で理容室を営む小山さんに当時の状況を聞いた。
小川さん
「南三陸町は電気水道ガスが駄目な状態で避難所でもノロウイルスが出始まり、衛生環境が良くないと。このまま避難所にいたら辛いという話なって」
小山さんの自宅は津波で流出。
志津川小学校の避難所に両親と妻、それに子ども3人の一家7人で身を寄せた。
最初の2次避難が行われたのは2011年4月3日。
当時町が行った意向調査で2次避難を希望したのは避難者の3割1448人にとどまった。
避難先は大崎市など県内3市1町だった。
南三陸町町長
「強制はしないけど仮設住宅ができるまでの間、この辛い避難所生活ではなくて少し町を離れてゆっくり温泉に 入って休んでくれと、その代わり仮設住宅ができたら 迎えに行くからとお話をして」
受け入れ先の一つが鳴子温泉の仙庄館だった。
およそ170人を受け入れ、避難者には5人から6人一組で旅館の一室などが割り当てられた。
避難所生活と変わって水、電気、食事の整った生活。旅館としても震災で宿泊客が減少する中、2次避難受け入れによる国からの補助金で、利益は出ないながらも従業員の雇用を守れたと言う。
女将 加藤陽子さん
「来てもらって雇用も守れたし、私はありがたいと思いました。だから、出来る限りの事はしようと思って。」
従業員
「長丁場ですから楽しく明るくお過ごしいただければと思います。」
避難者の中にはお父さんとお母さんが仕事で南三陸に残り祖父母と孫だけという家族もいたという。
「子どもたちがお父さんお母さんを恋しくて泣くんです。私も一緒に泣きました。でも、やっぱり子どもが一番最初に立ち直った気がしますよ。」
しかし、2次避難は仮設住宅が完成するまで最長で半年間にも及んだ。県内での2次避難はピーク時で3000人あまりで南三陸町の1348人が最多だった。
小山さん
「希望をもって仮設住宅が当たるのを待つしかないなと思っていましたね。半年もいるとこのままこっちにいてもいいのかなと思ったりしたこともあるんですよ。例えば古川あたりにアパート借りて住むとか、戻らなくても良いんじゃないのかというのも芽生えてきまして」
佐藤町長は町の復興を考えると悩ましい一面もあったと振り返る。
南三陸町佐藤町長
「長期に2次避難すると、生活基盤がそっちに作っちゃう。復旧の仕事があるので若い人体動く人はここに残って 復旧の仕事してもらわないと町の復興が進まない。そこのバランスが難しいなと思った」
能登半島地震から1か月あまり。
石川県での2次避難は旅館やホテルなど200か所以上でおよそ5000人に上っている。
助かった命が避難生活の長期化で失われてしまうことのないように。東日本大震災の教訓が生かされることが必要だ。
小山さん
「一番私が言いたいのは積極的に2次避難してほしいということ。今の避難所にいて良いこと何もないと思うので、とにかく体を休める所、衛生的な所に移って、生活できるようになってから戻れば良い話なのでそれを積極的に言いたいですね」