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「(供養のため戦死した仲間の手首を)切って焼いて持ち帰った」 戦後79年、失われつつある戦争体験者の貴重な証言 

2024年8月15日 5:25
「(供養のため戦死した仲間の手首を)切って焼いて持ち帰った」 戦後79年、失われつつある戦争体験者の貴重な証言 

今年の8月15日で終戦から79年を迎えます。

日本海テレビでは、実際に戦地に赴いた経験がある元日本兵の男性に話を聞くことができました。戦争体験者が年々少なくなる中、貴重な声を伝え続けていくためには…証言を残す取り組みに力を入れる自治体の活動も紹介します。

島根県飯南町に第二次世界大戦で数々の戦闘を生き抜いた元日本兵の男性がいます。難波和夫さん、104歳。太平洋戦争が始まる2年前の1939年、広島の海軍工廠(こうしょう)で働いていた二十歳のときに召集令状が届きました。

難波和夫さん
「あの頃は何も思わない。誰もが(戦争に)行くことは当たり前」

旧陸軍の浜田連隊に入隊し、十分な訓練を受けないまま、中国へ渡った難波さん。毎日のように繰り返された銃撃戦の様子が今も脳裏に焼き付いてます。

■脳裏に焼き付いている戦時中の様子

難波和夫さん
「(仲間が)パンパンパン!と撃たれたんです。(銃弾が)ここから入って後頭部へ出る。脳みそがドロッと出て頭をやられたから即死です」

次々と銃弾に倒れていく戦友たち。戦闘の合間でもなんとか供養してあげたいと、遺体の一部を持ち帰りました。

難波和夫さん
「(戦死した仲間の手首を)この辺から切って焼いた。日の丸の旗を出して(遺骨を)包んで結わいて首にかけて歩いた。戦いの最中だからしょうがなかった、助けられなかったなと思った」

また、兵士たちを苦しめたのが食料難。部隊から十分な支給はなく、中国での戦いでたびたび行われたのがー。

難波和夫さん
「不足分は現地調弁、わかります?早く言えば『盗っ人をして食え』」

現地の中国人からコメなどを奪って生き延びました。

Q:盗んだ時に中国人から何か言われたか?
難波和夫さん
「中国人は戦争の時には日本軍には近寄らない、殺されるから」

難波さんはその後も転戦を繰り返し、終戦までの6年間を戦場で過ごしました。

■戦争体験者の貴重な証言にに身を傾けるひ孫のちひろさん

難波さんの当時の貴重な証言に耳を傾けているのは、ひ孫のちひろさん。

難波さんのひ孫・ちひろさん
「よく弾が当たらずにここまで長生きされたのがすごい。今でもウクライナとかの戦争で亡くなっている人がいるので、この世から無くなってほしいと思います」

第二次世界大戦の終結から79年を迎えても、世界中で今も続いている争い。

難波和夫さん
「私らが中国でやった戦争と同じです。戦争はいけません」

■貴重な証言を残そうと取り組む自治体

東京のほぼ中央に位置する三鷹市。年々、失われつつある戦争体験者の声。こうした中、貴重な証言を残そうと、取り組む自治体があります。

三鷹市 平和・人権・国際化推進係 中塚 大 係長
「映像にして配信することで、どなたもアクセスしやすい、触れやすい当時の戦争の記憶を、風化させずに残していくことが映像化によって可能になる」

東京大空襲を経験した 荒川博さん
「どんどん焼夷(しょうい)弾が落ちて周りに火事ができて、子ども心にものすごく恐怖心を持ったことを覚えています」

戦争体験者の声を集めたウェブサイト。このサイトを運営しているのが、東京都の三鷹市です。平和事業に力を入れている三鷹市役所の庁舎の一角には、市にゆかりのある人から寄せられた戦争資料が並ぶコーナーも。


三鷹市 平和・人権・国際化推進係 山際 陽子 さん
「軍や戦地へ行かれた方が持っていた軍隊手帳だったり、そのころの様子を伝えるものも結構あります。ずっとご自宅の押し入れの奥深くに残ってましたよという方もいらっしゃいますし」

旧陸軍の演習の場に訪れた昭和天皇を写した写真や、南方の戦地で兵士が食べたという大蛇の皮など、150点以上の資料が展示・所蔵されています。こうした取り組みの背景には、戦時中のある出来事が…。

三鷹市 平和・人権・国際化推進係 山際 陽子 さん
「三鷹市には当時、中島飛行機という飛行機の工場がありましたので、その関係で最初に狙われた東京大空襲の口火になったところでもあるんです」

戦闘機の製造など軍需産業が盛んだったため、たびたび米軍機の空襲に遭い、多くの市民が犠牲となった三鷹市。悲惨な歴史を次世代に継承しようと、平和事業に力を入れています。そして2016年にスタートしたのが戦争体験談のネット配信「みたかデジタル平和資料館」。

市の広報誌を通じて体験者を募り、担当者が自ら取材を行います。

三鷹市 平和・人権・国際化推進係 山際 陽子 さん
「『次世代に生の声を残せるのは自分たちが最後の世代だ』という、自覚が強い方がいっぱいいらっしゃって、使命感や焦りのようなものを感じている。体験を語ることであればできるよって」

■配信されているものの中には、山陰にゆかりのある人も…

長崎県出身の中舘文子さんは、太平洋戦争開戦の翌年1942年、2歳のときに母の実家がある島根県松江市に疎開。

中舘文子さん
「子ども心にB-29が飛んでくると震えあがる」

しかし、戦争末期になると米軍機は松江市にも襲来してきました。

中舘文子さん
「庭で遊んでいたら空襲警報が鳴る前にごーっと飛行機が飛んできて、逃げろと言われたときは防空壕に入る暇がなくて、家の押し入れの中に(入れられて)お庭に出たら機銃掃射の弾の痕。家が焼けなかっただけ。そういうのは良かった」

松江市玉湯町を中心に狙われたこの空襲で、40人以上が亡くなったとされています。終戦を迎え、4年ぶりに故郷の長崎へ戻った中舘さんでしたが…。

中舘文子さん
「佐世保の家はもう丸焼けで焼け野原になっていました。日本に限らず世界中が平和で、みんな仲良く笑顔が絶えない毎日になってほしい」

三鷹市がこれまでに取材した戦争体験者は60人以上。年々、体験者を見つけるのは難しくなっているといいます。

三鷹市 平和・人権・国際化推進係 中塚 大 係長
「当時の体験とかを頭に浮かべながらお話しくださってると思いますので、生の表情、生の声というのが大事かなと。そこが映像化の一番のメリットなのではと思います。いかに知っていただけるかが、これからの重要な取り組みではないかと思っています」

戦後79年を迎え、失われつつある戦争体験者の声。

難波和夫さん
「私らが中国でやった戦争と同じです。戦争はいけません」

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