【特集】証言「満蒙開拓団」新潟から満州へ渡った人々 終戦直後の混乱で引き離された家族 失われた命 終戦から79年《新潟》
終戦から79年。
戦時中に中国・満州へ渡った開拓団。
戦後の混乱で奪われた多くの命……そして、引き裂かれた家族…… 。
激動の時代を生き抜いた男性の証言です。
19歳になるまで暮らした満州での記憶……。
【巻口弘さん】
「懐かしいね。母親、父親も真ん中にいるあそこにいる学生服と長靴を履いているのが私です」
■満州柏崎開拓団の一員として家族とともに
柏崎市に住む巻口弘さん、89歳。
戦時中、満州柏崎開拓団の一員として家族とともに海を渡りました。
【巻口弘さん】
「こんな(幼い)時からもう母親の飯炊きの手伝いをよくやった。 開拓団は軍人の次に待遇が(良かった)。食品とかパイナップルの缶詰とか日本にいたら食べられないようなものの配給があった」
1938年、国は「国家総動員法」を公布。
配給制を徹底したことで全国的な不況に陥ります。
そこで国策として進められたのが満州への移民政策。
広大な土地…豊かな暮らしを夢見て県内からもおよそ1万3000人が海を渡りました。
【巻口弘さん】
「とにかく夢よ希望よ、じゃないけどね。『土地ももらえるし』という父親の言葉が残っているからね」
家族7人で満州へ渡ったのは1942年巻口さん、8歳のとき…… 。
満州柏崎村が作られたのはハルビンから北東に300キロ離れた梹榔という未開の地。
荒れた野山を耕し暮らしは徐々に安定していきました。
しかし、1945年8月9日。
ソ連軍の侵攻により満州は戦場と化します。
その後、日本が無条件降伏……。
軍に召集されていた巻口さんの父を含む成人男性の多くがシベリアへ抑留されました。
残されたのは女性や子ども、高齢者……。
日本へ帰る手段はなく難民生活が始まります。
やがて満州に訪れた氷点下30度の冬……
【巻口弘さん】
「越冬するときは猫の肉、煮ても泡ばっかり出てなかなか固い肉だけど、もちろんヘビなんかも捕まえて食べるとか」
過酷な環境のなか次々と失われていく命……
柏崎市には満州での悲劇を記した慰霊塔があります。
巻口さんも3人の弟を亡くしました。
【巻口弘さん】
「私のところはこれ、巻口耕三、隆、勉、これ3人。これだけみんな亡くなっているんだ」
およそ200人いた開拓団のうち、120人あまりが命を落としました。
戦争の悲惨な歴史を風化させないために、 満州での記憶を語り継ぐ男性がいます。
阿賀野市の須田一彦さん、87歳。
須田さんもまた開拓団として満州へ渡りました。
満州に行けば出征を免れるかもしれない……
父・鉄造さんが綴った当時の思いです。
【父・鉄造さんの手記】
「召集令状が昼となく夜となくきて、在郷軍人は次々と歓呼の声に送られて出ていく。力いっぱいに振る日の丸と人並みの間から見え隠れする悲壮な出征兵士の充血したまなざしを見るのがつらかった」
しかし、無情にも召集令状が届きます。
大黒柱を失ったまま迎えた終戦。
家族は助けを求め他の開拓団と、日本軍がいるという街を目指して逃避行を始めました。
しかし……
【須田一彦さん】
「私たちが保護を求めて行こうとする明城に、日本の兵隊はいないということが分かったんですね。ここで松川団長が全員の集団自決の宣言をする。『私が最初に行くからついてきてほしい』と、団長泣きながらの声が団に響き渡った」
集団自決に傾きかけた運命……。
【須田一彦さん】
「取りやめになりました……お年寄りの強い反対で。『私たちはもう年だからいいけれども、 なんで自分の手で子どもたちを殺せるものか、死に急ぐことはない、生き延びられるだけ生きよう』ということで、それが団の支配的な空気になって」
戦争の悲惨な歴史を風化させないために……
須田さんは幼い兄弟を亡くした記憶を語り継いでいます。
【須田一彦さん】
「はしかになりまして食べ物を欲しがる春子(亡くなった妹)を母はどうすることもできないでただ抱いているという中で『ごめんねごめんね』と泣きながら母は春子の体をさすっていたものです」
土に埋められ一本の線香も一本の花もない葬式でした。
【参加者】
「すごい話なんですね。感慨深いものでした。いい勉強になりました。」
「この生活がありがたいことだと思いました」
【須田一彦さん】
「最後になると国は国民を見捨てる、見捨てたことがあったんだと。戦争というものは 、いつでもそうだけども子どもたちのような弱い者が最初に犠牲になる」
柏崎市にある「満州柏崎村の塔」。
開拓団として満州へ渡り命を落とした人を追悼するため、ことしも献花台が設けられました。
戦中戦後の満州で3人の弟を亡くした巻口弘さん。
終戦後、軍に召集されていた巻口さんの父はシベリアへ抑留され、母・シズさんは幼い子どもたちを連れて満州を逃げ回っていました。
日本へ、ふるさとへ帰りたい……
そのためにはハルビンまでの300キロ子どもたちを連れて歩く必要がありました。
のちに、シズさんが記した当時の思い。
【母・シズさんの回顧録より】
「柏崎開拓団はハルピン行きと残留組とに分かれました。 私のように子ども4人も連れていてはとてもみんなについていくこともできません。どうせ死ぬなら母子5人で死のうと心を決め残留組に残りました」
幼子を連れての逃避行は限界を迎えていました。
シズさんは中国人男性・王徳財さんと生活することを決断します。
栄一さんという夫がいながらも残された4人の子どもたちの命を守るために…… 。
■「生きる道」
【巻口弘さん】
「朝4時になったら馬のエサをやるために、昼間になったらブタ。何十頭も飼っているのを長いムチ持って草原に行って一日中。そういう何かやらなければそこに住ませてもらえないし、食べさせてもらえないし、生きる道ですよね」
中国人に救ってもらった命。一方で、消えない葛藤。
【巻口弘さん】
「お父さんなんて気持ちにはなれない、おじさんということで“叔叔(スースー)”といってね、それしか呼べなかった」
19歳の夏、先に帰国していた父を頼って日本へ。
一方、母・シズさんは中国に残りました。
中国人の夫との間に2人の子どもが生まれ、もはや日本に帰ることができなかったのです。
その後、シズさんは中国で生まれた子どもを育てあげ1975年に帰国。
日本人の夫・栄一さんが亡くなって10年後のことでした。
生前再び会うことはなかった二人。いまは、ひとつの墓で一緒に眠っています。
【巻口弘さん】
「母なりに悩み苦しみ、子どもを養うために父と満州柏崎村開拓団へ行って、そして終戦を迎えた。なぜ戦争をやらなきゃならないかという痛みを感じた人たちの生の声をわかってほしい、いいことはひとつもない」
引き離された家族の姿が……
失われた多くの尊い命が……
戦争の悲惨さを訴え続けています。