【追悼】午前5時46分に黙とう「自分だけ生き残って申し訳ない気持ち」「誰かを守れるよう語り継ぐ」阪神・淡路大震災から30年…6434人の犠牲者を悼む
6434人が犠牲となった阪神・淡路大震災から、17日で30年となり、地震が発生した午前5時46分、被災地となった兵庫県内では、各地で黙とうが捧げられました。
神戸市中央区の東遊園地では、追悼行事「1.17のつどい」が行われ、未明から多くの人が足を運び、犠牲者を偲びました。今年、灯籠で描かれたのは、「よりそう」という文字で、30年前の震災だけでなく、東日本大震災や能登半島地震などで被災した人や街に寄り添い続けるという思いが込められています。
震災で母・規子さんと1歳だった弟・翔人さんを亡くした長谷川元気さん(38)は、「母と翔人が亡くなったと知ったとき、『もっと、母と翔人の笑顔を見たかった、一緒にいたかった』と後悔し、1日1日を大切に生きようと胸に刻み、30年生きてきた」と、遺族代表として追悼のことばを述べました。
神戸市内で被災したという70代の女性は、「あの日、近所の人が建物の下敷きになっていたのが分かっていたのに、重機もなく助けることができなかった。消防に頼んで建物の下から救出するまでに1週間たってしまい、その方は亡くなってしまった。もしもあの時、消防にもっと早くお願いできていたら、その人の命は助けられたかもしれない、自分だけ生き残って申し訳ない、という気持ちでこの30年を生きてきた」と語りました。
長田区で起きた火事に居合わせたという男性(72)は、「今でも震災の日のことは全部覚えています。消防車が来ているのに水がなくて、僕らは助けに行こうとする家族を『いったらあかん』と止める役だった。声は聞こえているけど、何もできないというのはつらかった」と当時を振り返りました。
17日は未明から兵庫県内の被災した各地で追悼行事が行われました。
神戸・六甲山のビーナスブリッジでは、5時46分に追悼のトランペットの音色が響き渡りました。演奏された曲は「どこかで春が」で、奏者の松平晃さんは「今年は30年という区切りなのでこの曲がふさわしいという気持ちで選んだ。(30年は)長かったようで、短かったようでもある。私も孫が3人いますので、その子たちが震災で痛めつけられるようなことがないように」と願いを込めました。
淡路島の北淡震災記念公園(淡路市)では、参加者が犠牲者と同じ数の灯籠を池に流し、手を合わせていました。
生後2ヶ月で被災し、現在は震災の教訓を語り継ぐ「語り部」として活動する女性(30)は、「寝ているときにお父さんとお母さんが上に覆い被さって守ってくれた。ひと1人がここまで大きくなるような年月が経ってしまった。次の震災のときに、自分が誰かを守れるように、語り部として語り継ぎたい」と打ち明けました。
当時、本堂に多くの人が身を寄せた芦屋市の西法寺では、ドラム缶がたき火や仮設の風呂の湯を沸かすのに使用されたことから、ドラム缶の釣り鐘を鳴らし、犠牲者を追悼しました。
両親が犠牲になった藤野春樹さん(72)は、「電気・ガス・水道もない時にドラム缶が役に立った。当時は必死に生きていた中で火を焚いたり水を沸かしたりした、その証としてドラム缶が震災の経験として、残していけたらと思う」と語りました。