【箱根駅伝】55年前の立教大学アンカー・高橋憲司さん 背負ってきた"8秒の十字架"
立教大学OB・高橋憲司さん
十字架を背負ってきた55年間
「もう自分が生きている間に、立教が箱根を走る姿は見られないかもしれないなと失礼ながら思っていました」こう語るのは、立教大学OB・高橋憲司さんです。1968年の第44回大会。憧れだった箱根駅伝のメンバーに3年生で初めて選ばれた高橋さんは、10区アンカーを務めました。
当時、シード権を獲得することができず、連続して予選会にまわっていた立教大学。「今年こそシード権を」の合言葉のもとに練習に励んできました。高橋さんも「メンバー入りできてうれしいということ以外ないですが、シード権を取って来年も出られるようにつなげたいという思いが強かったです」と10位以内に入ることを目標にしていたと語ります。
そして始まった箱根駅伝。立教大学は往路を9位で終えますが、翌日の復路でレースは波乱の展開になります。
「その当時、日本大学が特別強くて、11チームが繰り上げスタートになってしまったんです。(繰り上げで)4チーム呼ばれて、また4チーム呼ばれて、最後に3チームで1分おきに走りますということでした。(10位までのタイム差なども)私を含めてそれぞれのチーム、全然わからなかったと思います」と当時のレースを振り返る高橋さん。アンカーとして追う相手すらわからないまま、ひたすらに走りました。
しかしゴールすると、結果は11位。シード権を獲得した10位の早稲田大学とはわずか“8秒の差”でした。高橋さんは、当時の率直な気持ちについてこう振り返ります。
「ゴールした瞬間も本当にすごい声援を受けて、今もそれを思い出せるんですね」
「もうちょっと慎重に走っていれば8秒、9秒短縮できたんじゃないかとか思いました。8秒という十字架をずっと俺は背負ってきたなって感じでした」
当時、シード権を獲得することができず、連続して予選会にまわっていた立教大学。「今年こそシード権を」の合言葉のもとに練習に励んできました。高橋さんも「メンバー入りできてうれしいということ以外ないですが、シード権を取って来年も出られるようにつなげたいという思いが強かったです」と10位以内に入ることを目標にしていたと語ります。
そして始まった箱根駅伝。立教大学は往路を9位で終えますが、翌日の復路でレースは波乱の展開になります。
「その当時、日本大学が特別強くて、11チームが繰り上げスタートになってしまったんです。(繰り上げで)4チーム呼ばれて、また4チーム呼ばれて、最後に3チームで1分おきに走りますということでした。(10位までのタイム差なども)私を含めてそれぞれのチーム、全然わからなかったと思います」と当時のレースを振り返る高橋さん。アンカーとして追う相手すらわからないまま、ひたすらに走りました。
しかしゴールすると、結果は11位。シード権を獲得した10位の早稲田大学とはわずか“8秒の差”でした。高橋さんは、当時の率直な気持ちについてこう振り返ります。
「ゴールした瞬間も本当にすごい声援を受けて、今もそれを思い出せるんですね」
「もうちょっと慎重に走っていれば8秒、9秒短縮できたんじゃないかとか思いました。8秒という十字架をずっと俺は背負ってきたなって感じでした」
55年ぶりの箱根路へ 後輩たちに送るエール
それから55年。高橋さんを最後に、箱根路を駆けることはなかった立教大学。時を超え“R”の誇りを胸に後輩たちが、今回箱根駅伝本選への切符を掴みとりました。高橋さんも、母校の走りを楽しみにしていると言います。
「よくぞ頑張ったなという一言ですね。8秒の重みが多少軽くなったかなと思います。Rのマークをつけたユニホームが箱根路を走る姿を思い浮かべるとワクワクします。本当に久しぶりのことで楽しみです」
そして、最後に後輩たちにエールも送りました。
「自分の持っている力を全部発揮してもらいたい。箱根駅伝にすべてね」