勝利の立役者・比江島慎 亡き母に誓った“パリ五輪の切符” 「お母さんの力を借りながらいい結果を」
日本の逆転勝利の立役者は間違いなく比江島慎選手でした。9点を追いかける第4クオーターに4本の3ポイントを決めるなど17得点。試合を通じてもチームトップの23得点をマークし日本の攻撃をけん引しました。
日本代表の中ではチーム最年長の33歳ですが、年下選手からもいじられる愛されキャラ。この日も試合後にロッカールームで手洗いウオーターシャワーで仲間から祝福されました。日本が世界で勝てない時代も代表の中心選手として引っ張ってきた比江島選手。今でも代表として活躍する裏には、5年前に亡くなった最愛の母、淳子さんの存在がありました。
福岡県出身の比江島選手は兄の影響で6歳からバスケットボールを始めました。その比江島選手に一番近くで声援を送ってくれたのが母・淳子さんだったといいます。比江島選手の試合は欠かさずに観戦に行き、時には海外の試合にも応援に駆けつけてくれたそうです。
「いつでも僕たち兄弟を照らしてくれる、太陽みたいな存在でした。性格が僕と真反対で明るい人でした。めちゃくちゃ大好きでした」
■突然おとずれた最愛の母との別れ
しかし5年前、自宅で倒れた母・淳子さん。自宅に帰宅した比江島選手が発見し、救急車を呼びましたが帰らぬ人に。突発的な心臓発作だったといいます。
精神的に立ち直れない比江島選手。それでも悲しみを抑え試合に出続けたといいます。
「泣きながら試合をしている状況ではありました。でも、お母さんは自分がバスケをしている姿を喜んでみてくれてたので、いつまでも落ち込んでいられないなって気持ちを整理しました」
そして、母との別れから約3週間後の試合。当時、Bリーグ・三河でプレーしていた比江島選手は試合終了間際に試合を決定づけるシュートを決め、天を指さしました。くしくもこの日は母の日。母・淳子さんへの合図でした。
「母の日ということで勝利を届けて感謝の気持ちを伝えたかったので、お母さんに捧げました」
このシーズン、比江島選手はシーズンMVPを獲得。授賞式のスピーチでは涙をこらえながら「お母さんのため、バスケ界のためにもわくわくするようなプレーを続けて、みんなが納得するような選手になってまたここに帰ってきます」と活躍を誓いました。
■母に誓ったパリ五輪出場
比江島選手はその後も、Bリーグだけでなく日本代表でも円熟味を増し日本代表の顔として活躍。しかし19年のW杯、21年の東京五輪と世界大会では勝利をおさめることができず苦しい時期を過ごしました。
「どうしても世界に対して負けたままで終わりたくない。そういったリベンジも含めて、まだ続けたいなって思ったんです。やっぱりお母さんも相当負けず嫌いでしたし、僕もその血を受け継いでるんでね」
そして今大会はチームの最年長として挑むW杯。大会前には、自身の最後の代表になるかもしれないと語るなど、強い思いで大会に挑んでいます。
「世界での戦いというのはお母さんも楽しみにしていたし、僕の目標はお母さんの目標というか。お母さんも応援してくれているのは間違いないですし、お母さんの力を借りながらいい結果を出したいですね。今も見てくれています、どこにでもいますから」
そしてこの日、自らの活躍でベネズエラに勝利。次戦の結果次第で48年ぶりに自力での五輪出場権を手にすることができます。
「お母さんにも約束したパリ五輪の切符をつかみとるというところは目の前まで来ているので、ぜひ僕らでしっかりつかみ取って、自力でいけるようにまた頑張りたいです」
9月2日のW杯最終戦。最愛の母へ最高の報告をする比江島選手の姿を待ちわびています。