青空応援団、12年の活動に区切り「自分の人生も大切に」それぞれの日常に戻っても彼らは…

仙台を拠点に、12年にわたって活動を続けてきた社会人の応援団がいます。
これまでの活動、そして、エールに込めた思いを追いました。
門出の日。
突然、会場に現れた学ラン姿の男たち。
卒業生ではなさそうです。
彼らは、高校生でも大学生でもなく全員が社会人。
ただひたすら目の前の人を思い、声の限りにエールを送る。
その名は「青空応援団」。
毎週水曜日の夜。
仕事を終えた男たちが仙台市内の寺に集まります。
身にまとうボンタン・学ランは自分持ち。
平均年齢40歳以上の団員が腹の底から声を出しエールを切り続けます。
団を率いるのは平了(たいら・りょう)さん、46歳。
平了 団長
「応援っていうのは世の中に必要なんだなっていうのは、僕の人生の中で学んだことだし、僕は誰かを応援したい」
応援を始めたのは高校生の時。
街なかでもボロボロの学ランに下駄。バンカラな気質を守り続けていました。
伝統の仙台一高応援団で平さんは団長を務めました。
誰かを応援することが全てでした。
大学を卒業し社会人になると応援とは無縁の生活に。
それが、あの日―。
震災の1ヶ月後、津波で命を失った親友の家の片付けを手伝いました。
その後、平さんはガレキ撤去の支援活動を始めます。
少しでも日常を取り戻す手助けになればと、スコップを振り続けました。
しかし、その1年後、活動にピリオドを打ちます。
ガレキが無くなっても心の不安は拭えない。もっと自分にできることはないのか…。
応援団魂が蘇りました。
2013年、社会人だけの応援団を結成。
人は誰かの応援があってこそ頑張れる。
日本全国、依頼があれば駆けつけると決めました。
12年間の活動を通して団員は全国で90人を超え、仕事の合間に応援を必要とする人へエールを送り続けてきました。
46歳になった平さん。
ある理由からこの3月で応援団の活動に区切りをつけることにしました。
平了 団長
「本当は僕が僕自身が50歳までやろうと思ったんですけども、団員の家族のこととかねいろんなこと考えますと自分達の人生もちゃんと真剣に本気でね向き合っていかないといけないなという年齢になったっていうのと」
年齢を重ねたからこそ、誰かを応援するだけでなく自分の人生も大切にしてほしい。
団員に送るエールでした。
最後の舞台は高校の卒業式。
保護者からの依頼を受け卒業生にエールを送ります。
団の全員が特別な思いを抱いています。
結成当初からのメンバー横山慎也さん。
40歳を過ぎてから応援を始めた理由がありました。
長男の由宇人(ゆうと)くんが病魔に襲われたのは4歳の時。
進行性の重い心臓病。
命を救うには海外での移植手術しか道はなく、支援者と募金を呼びかけました。
由宇人くん(2011年5月)
「ボク元気になりました、ありがとうございました」
たくさんの善意に支えられアメリカでの移植手術は成功。
命のバトンをつなぎ、息子はハタチになりました。
それは、家族を救ってくれた人たちへの恩返し。
今度は自分が応援することで誰かを救いたいとエールを送り続けました。
横山慎也さん
「結果的にね、いろんな場所でいろんな方に恩返しというか応援をさせて頂いて。貴重な体験をさせてもらったな、というのが思いにあります」
及川亮さんは気仙沼市の出身です。
震災で傷ついた人々を元気づけたいと応援団に入団。
地元・気仙沼で送ったエールは今も胸に焼き付いています。
震災から立ち上がるふるさとを、そして、世の中を元気にしたいと、12年間、活動してきました。
及川亮さん
「(応援で)人の背中を押すっていう活動っていうのは、つないでいかないとなくなってしまうので、続けてきたことには意義はあるかなと思っています」
青空応援団としての集大成。
万感の思いを胸に、力の限り声を振り絞ります。
「フレーフレー富谷!フレーフレー富谷!」
社会人の仲間と作った応援団。
大人になって、痛みを知って、今思う。
応援は勝ち負けのためじゃない。
目の前にいる人の心を少しでも晴れやかにできればそれでいい。
高校生
「自分の幸せだけではなくて、他の人も周りも幸せにできるように。今度は自分が応援する立場になりたいなっていう風に感じました」
高校生
「今日のエールを受けて、尚一層今度は人の役に立てる人になれるよう、さらに頑張っていきたいと思いました」
応援するということは、向き合う人の心に寄り添うこと。
それぞれの日常に戻っても、彼らは誰かを応援し続けます。