“ソ連軍が来る”ミグ25戦闘機の破壊計画 命令なしで動き始めた自衛隊 緊迫の歴史の舞台裏

47年前に冷戦下のソ連から北海道・函館空港にミグ25戦闘機で飛来したベレンコ元中尉が、亡命先のアメリカでことし9月に死亡していたことが分かりました。
1976年、函館空港に日本の防衛網をかいくぐってソ連の戦闘機が舞い降りるという前代未聞の事件。
これに危機感を抱いた自衛隊が出動命令もないまま、ひそかに臨戦態勢をとっていたのです。
日本の防衛はどうなっていたのか、
2006年に取材したベレンコ元中尉の証言などをもとに「あの時」を振り返ります。
北海道函館市の空の玄関、函館空港です。
ここにソ連から戦闘機が飛来することを、誰が想像できたでしょうか?
事件が起きたのは、今から47年前のことでした。
突如現れた戦闘機 旧ソ連軍のミグ25が飛来
1976年9月6日。
ソ連のウラジオストク上空で訓練中だったミグは、突如高度を下げて日本海を超低空で飛行。
鉄壁を誇っていたはずの日本の防空網を突破して、函館空港に強行着陸しましたた。
ラグビーをしていた男性は、高校のグラウンドでミグを目撃しています。
(目撃した男性)「向こうで蹴ったボールが上にあがったら(相手が)違う方向に走り出したんです。私はそのボールを見ていた。なんでそっちに行ったのかと思っていたら、ギューンと飛行機(ミグ)が飛んできた。ミグをラグビーボールと勘違いして違う方向へ走り出した」
降り立ったベレンコ中尉が亡命を求める
着陸直後に撮影されたミグの写真です。
操縦席の人影は、ビクター・ベレンコ中尉当時29歳でした。
ベレンコ中尉は日本政府に対して、アメリカへの亡命を求めます。
当時冷戦下にあったソ連の軍人。
日本にとっては全く想定外の事態でした。
その3日後、ベレンコ中尉はアメリカに向かいます。
ソ連が身柄の引渡しを要求するなかで、ミグ25を手土産にしたベレンコ中尉をアメリカは歓迎したのです。
その国際政治の舞台となったのが函館空港でした。
あの事件は何だったのかー
取材班は2006年、アメリカにいるベレンコ元中尉を訪ねました。