【解説】坂本龍一さん死去…世界にも衝撃 音楽活動と並行し社会活動 “若手育成に貢献”受賞も
「世界のサカモト」こと音楽家の坂本龍一さんが3月28日に亡くなっていたことが分かりました。映画音楽などでも世界をまたにかけ活躍し、また、音楽だけにとどまらず、晩年も幅広い分野で活動していました。その一端を振り返ります。
●世界から評価
●並行して社会活動
●若者の「成長の場」
以上のポイントを中心に詳しく解説します。
2日夜、衝撃の一報が入りました。音楽家の坂本龍一さんが3月28日、71歳でその生涯を閉じたということです。日本国内のみならず、海外でも悼む声が相次いでいます。
坂本さんがかつて暮らしていたニューヨークでは、付き合いのあったバーのシェフが「食べる量が少なくなっていたのは感じていたが、まだ信じられない」と話していました。
また、BTSのメンバー、SUGAさんはSNSに追悼のメッセージを投稿しました。「先生、遠い旅が平安であることを願います」というコメントと共に英語で「安らかにお眠りください」を意味する「R.I.P」と書き添えています。
坂本さんは1978年に高橋幸宏さん、細野晴臣さんと共に「YMO」を結成し、シンセサイザーとコンピューターを駆使した斬新な音楽で、世界の音楽シーンを席巻したと言えます。
その後、坂本さんはソロでも活躍します。1983年には映画「戦場のメリークリスマス」に出演し、音楽も自ら担当しました。そして1988年、映画「ラストエンペラー」ではアメリカのアカデミー賞で日本人初となる作曲賞を受賞するなど、世界で極めて高い評価を受けていたということです。
これまでに携わった映画音楽は、実に30以上に上ります。どういう瞬間に音楽が浮かぶのか、2016年には「突然な方がいいですね、結果がね。寝てて出てくる場合もあります。だからしょうがないから、そういう時は無理やり起きて眠たい目をこすって書いておいたり」と話していました。
坂本さんは精力的な音楽活動の一方で、2014年には中咽頭がんが判明しました。6年を経て寛解しましたが、2020年、新たに直腸がんが見つかるなど闘病生活が続いていました。
がんと向き合ったことで音楽との向き合い方にも変化があったといい、「自分の限られた時間の中で真剣度は変わった」と話していました。
坂本さんはがんと闘いながらも、去年12月には2年ぶりとなるコンサートを開催しました。病を押して去年9月に全13曲、約60分に及ぶ無観客のコンサート映像を収録し、それを去年12月に有料配信という形で世界へ届けたのです。「かなり体力も落ちてしまって、1時間とか1時間半の通常のコンサートってもう難しいんですよ。なので今回、1曲ずつここで撮影してそれを編集して、ひとつながりのコンサートになるように」とコメントしました。
坂本さんはその命が尽きるまで精力的な音楽活動を続けていましたが、並行して社会活動も積極的に行っていました。
2011年の東日本大震災の後には「原発ゼロ」、脱原発を掲げ大規模な集会なども開いていました。また、復興支援の一環として特筆されるのは、2013年に始めた「東北ユースオーケストラ」です。岩手・宮城・福島の子どもたちを中心に編成されたオーケストラで、東北の子どもたちが普段は会うことのない地域の人々との交流を通じて「成長の場」になるようにと企画されたものです。坂本さんが監督を務めていました。
3日、オーケストラのリーダーで大学4年生の菊地彩花さんに話を聞きました。坂本さんは「音楽を通じて交流することで『心の復興』をいつも考えておられた」ということです。
世界的に偉大な人物だと知りつつも、菊地さんたちと接する時にはとても気さくな人柄だったということです。例えば、熊本での演奏会の時には、本番直前に舞台袖で緊張している菊地さんたちに後ろから「馬刺し食べた?」と突然声をかけたそうです。その一言をきっかけに学生たちの緊張が一気に解けたということです。
この活動を通じて、坂本さんは2016年に芸術文化の世界で若手の育成に貢献した人に贈られる「モンブラン国際文化賞」を受賞しています。
菊地さんは「音楽ができる場や仲間との出会いの場を与えてくれて、感謝してもしきれない」と話していました。
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世界中で、この訃報から坂本さんの音楽に耳を傾けている人も多いかもしれません。坂本さんが生み出した音楽そのものには、形はありません。ただ、こうして活動をたどってみると、関わった人たちの心にも、携わった活動の中にも大きな足跡を残したことは間違いありません。
(2023年4月3日午後4時半ごろ放送 news every. 「知りたいッ!」より)