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日系アメリカ人の極秘部隊二世が戦った沖縄

2021年8月11日 18:21

第二次世界大戦中、「敵性外国人」として、強制収容などの差別を受けた日系アメリカ人。その中で唯一、日本軍と戦う太平洋戦線に投入されたのが、「MIS(陸軍情報部)」に所属する日系人たちだ。

日本語の語学能力を駆使して、暗号解読や捕虜の尋問などの情報収集にあたったMISの兵士たち。中でも太平洋戦争末期には、沖縄にルーツを持つ日系人たちも、沖縄戦に投入されていた。

終戦からまもなく76年。ある事情から、兄弟が日米に別れて沖縄戦を戦うことになった、日系二世の元兵士を取材した。(ワシントン支局・渡邊翔)

■アメリカ軍に設置された、日本語を駆使する情報部隊

7月下旬、オンラインでインタビューに応じてくれたのは、日系二世の元・陸軍情報部兵士であるシンエイ・ギマさん。1925年生まれの96歳だ。

元陸軍情報部 シンエイ・ギマさん(96)
「(日本語を話す)語学兵の存在は、長い間極秘とされてきました」

第二次世界大戦中、「敵性外国人」として約12万人が強制収容された日系アメリカ人。母国アメリカへの忠誠を証明するために、欧州戦線で戦った日系人部隊「442連隊」の存在は有名だが、陸軍情報部の場合、戦後もその存在が極秘とされたことや、兵士が各地の部隊に数人ずつ分散して配置された事情も影響し、正確な部隊員の名簿なども長年、存在しなかった。

部隊には専門の語学学校が設置され、およそ6000人(*米第二次世界大戦博物館による)が、ここでの日本語の訓練を経て、各地の部隊などに配属された。彼らは、日本軍と直接対峙する太平洋戦線に参加を許された、唯一の日系アメリカ人で、最前線で、暗号解読や捕虜の尋問など「情報戦」に従事した。

ギマさん(96)
「例えば、日本兵の指令を聞いて、攻撃してくるぞ、ということなどが分かります。また、日本兵を捕まえたら、情報を得たり、文書を得るために捕虜に尋問する。兵士の日記や公式文書などは貴重な情報になるわけです」

さらに彼らは、ジャングルや洞窟に潜む日本軍や、市民に日本語で呼びかけ、投降を促す活動にも従事した。無益な戦闘を避け、お互いの命を救う役割を担ったのだ。沖縄戦でも、多くの日系人兵士が、洞窟に隠れた市民らに、時には沖縄の方言で呼びかけたという。

■実の弟が沖縄に…途絶えた連絡

ギマさんも1944年、陸軍情報部の一員となった。ただ、ギマさんの抱える事情は、他の隊員以上に複雑なものだった。実はギマさん一家は、沖縄にルーツを持つ日系人家族。それゆえに、弟・ノボルさんが、幼少期にハワイから沖縄の祖父母の元に引き取られ、太平洋戦争開戦当時も沖縄に暮らしていたのだ。

ギマさん(96)
「私が行くはずだったのですが、ノボルが『行きたい』というので、彼が行ったんです。ノボルは、沖縄の少年として育ちました。戦争が始まると、彼をハワイに連れ戻すにはもう遅かった。全ての連絡が絶たれてしまったのです」

こうした中、1945年の初め、来る沖縄侵攻を見据え、沖縄にルーツを持ち、沖縄の方言も理解できる日系人の特別部隊が組織され、ギマさんも参加した。今回、ギマさんは取材に応じるにあたり、この部隊の10人の名前を紹介することを条件とした。

ギマさんに加え、トム・イゲ、ジロー・アラカキ、レスリー・ヒガ、セイユー・ヒガシ、ヒロシ・コバシガワ、ケンゾー・ミヤシロ、カズオ・ナカムラ、コセイ・オオシロ、セイキチ・サキハラの10人だ。

ギマさんは、部隊で現在もご存命の、最後の1人となっている。

ギマさん(96)
「我々は皆、沖縄にルーツを持っていました。ですから、沖縄が攻撃される中でも、なんとか家族が生き残り、見つけ出せるよう願っていました」

■ついに沖縄へ 日本軍に投降促すも…

1945年4月末、沖縄に上陸した20歳のギマさんたち。最初は文書の翻訳などの作業に従事した。激しい戦闘の場となった沖縄。ギマさんが口にしたのは、荒れ果てた沖縄の「色」だ。

ギマさん(96)
「ノボルは、戦争前の沖縄はとても美しい、緑豊かな場所だったと言っていました。戦闘の爆撃で、全てが茶色になってしまった」

その後、ギマさんは沖縄本島の西にある久米島に派遣される。6月末に日本軍の組織的な戦闘が終了した後も、各地で日本軍の残党が抵抗を続けていて、ギマさんもこうした部隊に投降を促す活動を担当したのだ。当時、久米島で抵抗を続けていたのは、鹿山正兵曹長が率いる通信隊だった。

ギマさん(96)
「彼らは洞窟に隠れたり、一般市民の中に紛れたりして、私たちには見分けがつかなかった」
「そこで、リーフレットを作って説得を試みました。『センデンビラ』です」

しかし、それでも鹿山部隊は投降しなかった。それどころか、アメリカ軍と接触した市民ら20人以上を、スパイ容疑で殺害したのだ。9月に入り、ようやく投降した鹿山は、ギマさんにこう話したという。

「もう少しで、君の首は刎ねられるところだった」

日系人のギマさんは、久米島の市民、しかもスパイだと認識されていたのだ。

■ついに判明した弟・ノボルの消息、その所在は意外にも…

久米島での任務終了後、ギマさんはようやく、弟・ノボルさん捜しを本格化させることができた。沖縄に住む祖母とは再会したものの、ノボルさんの行方は分からず、業務の合間に、いくつもの捕虜収容所を訪ね歩いたという。

そしてついに――

ギマさん(96)
「最後のキャンプで、戦争捕虜の名前などの資料に彼の写真を見つけたんです。『おお、ノボル!』と。年齢は16歳だったか17歳だったか、住所も一致していて、彼だ!と思いました」

ノボルさんは生きていた。ギマさんはすぐ、収容所の担当者に「これは私の弟なんです。会えますか」と尋ねた。しかし、返ってきた答えは、さらに意外なものだった。

「遅かったな。この捕虜のグループは、5月にハワイに送られた」
当時、高校生だったというノボルさん。実は沖縄戦で組織された学生部隊「鉄血勤皇隊」に所属させられた。何とか生き延びたものの、戦争捕虜として、自らの故郷であるハワイの収容所に送られていたのだった。

ギマさん(96)
「両親にすぐに手紙を書き、ノボルは生きていると伝えました。ハワイで戦争捕虜になっていると。彼はアメリカ人なのだから、解放されることができると」

1946年7月にノボルさんは解放され、ギマさんはようやく弟と再会することができた。ノボルさんはその後、アメリカ軍に務め、再び沖縄で暮らした。(2017年に死去)

日系アメリカ人であるがゆえに、日米双方に別れて沖縄戦を経験することになったギマさん兄弟。ギマさんは、自分がもし幼少期に沖縄に行っていたら、もっと早くに戦争で死んでいただろうと振り返り、ノボルさんにも戦後、「君は命の恩人だ」と伝えたという。

インタビューの最後に、若い世代へのメッセージを尋ねると、平和な日常、そして生きることの大切さを、こんな言葉で語ってくれた。

ギマさん(96)
「我々人間は、完璧からはほど遠い。でも、私たちは人間として生きることができる。そして笑顔になり、人を愛することができるのです。これ以上何を望みますか?それで十分なのです」