日系人と戦争 最強日系部隊「差別と忠誠」
第二次世界大戦のヨーロッパ戦線で大きな戦果を挙げ、「最強の部隊」として知られるのが、日系アメリカ人で構成された「442連隊」だ。戦中、「敵性外国人」として差別されながらも、彼らはアメリカへの忠誠を示そうとした。
終戦から76年、アメリカでは去年から続くコロナ禍で、アジア系住民への差別や暴力が大きな問題になっている。繰り返される差別の問題。彼らは今のアメリカの状況をどう見ているのか、話を聞いた。(ワシントン支局・渡邊翔)
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■日系人の生活を「永遠に変えた」真珠湾攻撃
「テリー・シマです」98歳とは思えない元気な声が受話器から聞こえてきた。現在、メリーランド州に住む日系2世のシマさん(98)。コロナ禍以降、対面で人と会うことは極力控えているといい、今回電話で取材に応じてくれた。ハワイで生まれ育ったシマさんは、1941年12月、太平洋戦争の始まりとなった、日本軍による真珠湾攻撃に遭遇する。
当時18歳だったシマさん。真珠湾攻撃は、日系アメリカ人の生活を「永遠に変えてしまった」と振り返る。「ハワイでも、日本による侵攻の可能性に、多くの人々が不安を感じていました」こうした不安が広がる中、1942年2月、ルーズベルト大統領(当時)は、特定の地域を軍が管理する地域として指定できるようにする「大統領令9066号」を発出。この大統領令を根拠に、「敵性外国人」と見なされた日系人およそ12万人が、強制収容所に送られるなどした。
ハワイでは大部分の日系人は強制収容を免れるなど、状況はアメリカ本土ほど悪くなかったとされるが、シマさんは、それでも両親のような日系一世にとっては「大変な時期だった」と話す。
「一世は、日本への忠誠心とアメリカへの忠誠心のはざまで、大変な時期を過ごしたと思います。ただ、私たち二世はアメリカで生まれていますから、忠誠心に関しては全く疑問の余地はなかった」シマさんのように、「自分はアメリカ人だ」という確固たるアイデンティティーを持つ日系二世にとっては、日系人への差別や強制収容は「尊厳と自尊心を奪う」ものだと感じたという。
■アメリカへの忠誠を証明する戦い…「当たって砕けろ」がスローガン
そうした差別を打ち破り、アメリカへの忠誠心を証明したいという思いを持つ日系人によって組織されたのが、シマさんも参加した、日系人の部隊である442連隊だった。
1943年に結成された442連隊は、第二次世界大戦後期のヨーロッパ戦線で、目覚ましい戦果を挙げていく。特にドイツ軍に包囲されて身動きがとれなくなった白人部隊「テキサス大隊」の200人余りを救出した激闘は、その知名度を大きく高めた。一方で、「GO FOR BROKE」=当たって砕けろ、をスローガンに掲げる激しい戦い方による代償もすさまじく、志願・従軍した1万4000人のうち、2年間でのべ9476人が死傷した。(出典:Densho)
「二世がなぜそこまで激しく戦ったのかと、時々聞かれます。ひとつは、忠誠心を証明するという目標があったこと。442連隊は、忠誠の証明のために戦地に投入された唯一の人種集団でした。もうひとつは、隊員たちの多くが、『武士道』の教育を受けた親によって育てられたということです。多くの親が、子供が出征する時にこうアドバイスしました。『何をしても、家族に恥をかかせないように』」
シマさんも、大戦末期の1945年5月にヨーロッパ戦線に合流。合流したその日にドイツが降伏したため、戦闘には参加しなかったが、広報担当としてメディアに戦果の情報を提供した。
そして終戦後の1946年7月15日、トルーマン大統領(当時)が、ホワイトハウス南側の公園で442連隊の歓迎式典を催した。式典の準備に関わったシマさんは、トルーマンの発した言葉を、今でも覚えている。
「君たちは敵と戦っただけでなく、差別とも闘い、そして勝利した」
シマさんはこの時、日系人がアメリカの信頼を取り戻したことを実感したという。
「戦争が始まった時、ルーズベルト大統領は全ての日系人に、忠誠心がないとの烙印(らくいん)を押したのです。トルーマン大統領は、その烙印を取り去った」
自らの力で、母国からの信頼、そして人種的な平等を勝ち取った日系人たち。シマさんは戦争を振り返り、「平和的な話し合いと交渉で違いを解決すべきだ」と強調した上で、「それでも合意に至らず、さらに相手が攻撃してくるようなことがあれば、自分の公正な権利を取り返すために、反撃せよ、ということです」と話す。
当時の日系人にとって、命をかけて戦うことが、まさに自らの「存在証明」に直結していたことを強くうかがわせた。
■コロナで高まるアジア系差別「解決策は見つからない、それでも…」
今回、私がシマさんに尋ねたかったもうひとつのテーマが、コロナ禍でアメリカに広がったアジア系住民への差別や暴力の増加だ。もちろん、戦時中、日本が「敵国」となっていた時期の日系人の扱いと、今回のアジア系への差別は同列には語れない。それでも「有事には、人は自分と異なる他者に敵意を向ける」そういう点では、共通点があるように感じていたからだ。
「こうした差別や暴力をなくすには何が必要ですか」こう問うと、シマさんは「少し時間を下さい。考えをまとめたい」と言い、一旦受話器を置いた。しばらくして、再び電話をつないだシマさんの答えは、予想に反して重いものだった。
「私たちが生きている間に、解決策を見つけることはないでしょう。現実的に言えばお互いを尊重するために取り組むべきです。でも、すぐに解決できるというのは非現実的でしょう」
多民族国家のアメリカで、人種差別を排除することは難しいと指摘するシマさん。「ミラクルは起こりえます。例えば、インド系や中国系、ベトナム系のアメリカ人がノーベル賞をとったとしたら、差別する人たちも、彼らの能力を認識せざるを得ないでしょう。そういうことがあれば、状況は変わる。でも、それがどれだけ長続きするのかも問題です。人間は忘れるもので、過去に戻ってしまう可能性もある」
戦争という極限の状況で差別を経験し、命をかけてその状況を変えたひとりの日系人の、冷徹なリアリズムだった。
■「自分の方が優れている」という感覚が差別を生み出す
そしてシマさんは、差別を生み出す根本的な「感覚」について教えてくれた。
「お互いが相手よりも優れていると感じること、これが多くの問題を起こすのです」そして、こうした差別を解消するために、政府には立法措置や、教育を続けていくことが求められると語った。
アメリカだけでなく、今世界では、新型コロナウイルスのパンデミックによって、「他者への不寛容」が浮き彫りになっている。今こそ、改めて日系アメリカ人の歴史に目を向けるべきではないだろうか。