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「あなたたちが語り継いで」 アメリカの若者に被爆体験を継承 サーロー節子さん(90)が人生をかけて伝えたかったこと

2022年8月13日 12:43
「あなたたちが語り継いで」 アメリカの若者に被爆体験を継承 サーロー節子さん(90)が人生をかけて伝えたかったこと

核軍縮を協議するNPT(核拡散防止条約)の再検討会議が開かれているアメリカ・ニューヨークで、“あの日の記憶”を語り継ごうと奮闘する90歳の被爆者がいます。アメリカの若者に伝えたかったこととは…。

■2年半ぶりの国際舞台 若い人たちのために…

NPT再検討会議が開幕する2日前、ニューヨークの空港に1人の被爆者が降り立った。

サーロー節子さん、90歳。空港のスタッフに車いすを押されながら「2年半ぶりの海外、子どもが初めて飛行機に乗った気分」とほほ笑んだ。

これまで世界各地で演説を行ってきたサーローさん。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大により、2020年2月以降、国際会議に直接足を運べず、カナダ・トロントの自宅からリモートでの証言を続けてきた。

「自分の将来はもう限られている。残された時間は短い。若い人のために努力したい」

次の世代に被爆体験を語り継ぐことが、自らの使命だと感じている。ロシアによるウクライナ侵攻をめぐり、核の脅威が高まる中、「世界はヒロシマの声を必要としている」との思いで会議への参加を決めた。

■目に焼き付いて離れない77年前の惨状

広島に原爆が投下されたあの日、13歳だったサーローさんは、爆心地から1.8キロ離れた場所で被爆。爆風で倒壊した建物の下敷きになった。何とかはい出し、一命をとりとめたものの、姉や4歳のおい、たくさんの友人を一瞬にして失った。

「けが人の行列は、人間には見えずお化けのようだった。髪は逆立ち、皮膚や肉が骨からただれ落ちていた。自分の目玉を手で持つ人もいた」

77年が経つ今も、あの日に見た惨状が目に焼き付いて離れない。

「二度と同じ過ちを繰り返してはならない」、国際会議のたびに自らの被爆体験を語り、核兵器の非人道性を訴え続けてきた。

2017年の核兵器禁止条約の採択に大きく貢献し、国際NGOの「ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)」がノーベル平和賞を受賞した際、被爆者として授賞式で初めてスピーチ。「広島、長崎の非業の死を無駄にしてはならない」と訴えた。

■遠縁の岸田首相が演説も…「大切なものが含まれていない」

7年ぶりの開催となるNPT再検討会議では、被爆地・広島選出の岸田首相が日本の首相として初めて演説。サーローさんは自らの遠縁でもある岸田首相の演説を前に、期待を語っていた。

「総理大臣が自ら演説する、その熱意に感激しています。ただ、内容がどうなるか…それを楽しみにしています。日本は、アメリカの核抑止力に依存している。しかし、同時に『核兵器のない世界を』と話が矛盾している。その点を岸田さんがどう頭の中で整理しているのか、はっきりと聞きたいと思います」

8月1日、岸田首相の演説を聞くために国連本部を訪れたサーローさん。すると、各国の外交官が次々とサーローさんのもとに集まってきた。中には、軍縮担当の大使もいる。『核なき世界』を実現するためには、サーローさんら「Hibakusha(ヒバクシャ)」の声が必要だと話す外交官も少なくない。

総会議場で岸田首相の演説が始まった。最初はうなずきながら演説を聞いていたサーローさんだが、その表情はどんどん険しくなる。そして、演説が終わった直後、「大切なものが含まれていなかった」と残念そうに語った。

サーローさんが言う『大切なもの』とは、2021年1月に発効した、核兵器の開発・使用、核による威嚇などを全面的に禁止した核兵器禁止条約だ。条約の発効にサーローさんは「革命が起こった。やっと核廃絶を本気で考えようという社会的な広がりが出てきた。死ぬ前に核兵器廃絶という夢が叶うかもしれない」と感じていた。

岸田首相に対しては、「人類が核兵器を再び使わないことを確実にする唯一の方法は、核兵器を放棄して廃絶することだと知っているはずだ」として、核兵器禁止条約の批准を求めてきた。

しかし1日の岸田首相の演説では、核兵器禁止条約への言及はなかった。演説からおよそ4時間後、詰めかけた報道陣の前に姿を見せたサーローさんは、自らの思いを口にした。

「抑止論に基づく核政策を続ける限り、核兵器を手放すことはできない。いつまでも米国に追従していては、首相が求める社会(核なき世界)は来ない。(演説を聞いて)核兵器廃絶という夢は、まだまだ先のことだと感じた。手を緩めるわけにはいかない」

■「あなたたちが語り継いで」アメリカの若者に被爆体験を継承

広島への原爆投下から77年が経ったこの日、サーローさんは、国連本部でニューヨークの学生に“あの日の記憶”を語った。

「もう77年が経ちます。8月6日でした。私は13歳の中学生でした。1945年、日本は戦争で大敗していました。私たちは政府と軍のために動員されていました。男性は戦場に送られ、若い女性は農場へ送られた。

私は軍の本部にいました。機密文書の暗号を解読するための教育を受けていました。13歳の少女が重要な極秘任務をしていたなんて、想像できますか? 

午前8時15分、ちょうど業務が開始したところでした。2階の部屋で同じ学校の女子生徒約30人と一緒にいました。突然、窓に青白い光を目にしました。空中に浮かんでいるような感覚になりました。それが最後の記憶です。

意識を取り戻すと、暗闇にいました。そして倒壊した建物の下敷きになっていました。自分が死にかけていると気づきました。そして、かすかな女の子の声が聞こたのです。『お母さん助けて、神様助けて』と。私は1人じゃないと気づきました。すると突然、誰かが左肩を触って言ったのです。『あきらめないで。今、助けるから。進み続けて。隙間から太陽が見えるでしょ。できる限り早くはって向かって』と。

私は何とか脱出しました。しかし、同じ部屋の30人の女の子は、脱出できませんでした。生きたまま倒壊した建物の下敷きになったのです。まだ生きていたのに、みんな焼け死んだのです。これは街のいたるところで起きていたことです。人口約36万人の都市、ほとんどが民間人と非戦闘員でした。彼らは無差別に殺害されたり、重傷を負わされたりしたのです。

建物から出ると朝にもかかわらず、外は煙と粉じんで真っ暗でした。煙はキノコ雲になっていきました。目が暗闇に慣れる、と何か動くものが見えました。そこで見たのは、けが人の行列でした。でも人間には見えませんでした。お化けのようでした。髪は逆立ち、皮膚や肉は骨からただれ落ちていました。体の一部を失い、目玉を手で持つ人もいました。

列に加わり、近くの丘に逃げました。ふもとに軍の大きな訓練場がありました。サッカーコート2つ分ほどの場所でした。到着した時、そこは死体や瀕死状態の人であふれかえっていました。立ち上がり大声で助けを求める力は、誰にも残されていませんでした。彼らはかろうじて『水をください』とささやいていました。そうした大勢の人を救いたかった。彼らは水を求めていましたが、コップもバケツもありませんでした。

私は近くの川へ行き、全身を洗い、ブラウスを破り水に浸しました。そして、瀕死状態の人たちの元へ走ってもどりました。口元にやると『シュルシュル』と、ただ水を吸い込むだけだでした。その程度の救命活動しかできませんでした。

周りを見渡しても1人の医者もいませんでした。なぜなら医療従事者の約80%が殺害されたからです。生き残った医者は他の場所で人々を助けていました。多くの人には薬もありませんでした。炎天下で医者の診察も受けられなかったのです。ただそこで息を引き取りました。

当時は、原爆や放射線について知られていませんでした。高熱が出ても医者は感染症か何かだと考えていました。誰も科学的なことはわかりませんでした。放射線には非常に不思議な作用があります。即死する人もいれば、1週間後、1か月、1年後、10年後にも死んでいく人もいました。

恐ろしいことに、77年が経った今も続いているのです。恐ろしいことが起きて、それで終わりではありません。それは77年間、続いているのです。今でも命に影響を与え続けているのです。これが、核兵器の特徴です。

当時の原爆は、赤ちゃんのように未熟でした。何年もかけてアメリカは、核兵器をより進化させています。より凶悪で、より破壊的な兵器をより多く開発しています。広島は1つの原爆で破壊されました。長崎も原爆で破壊され、合わせて2つの原爆が使われました。今ではより性能が高い核兵器が世界で1万3000発あります。もし核の使用を許せば、広島とは比べものにならないことが起きます。恐ろしい話です。恐ろしいことに、世界の大半の人々は、自分がどんな世界に生きているのか知らないのです。これは核時代なのです」

証言を聞いて涙を浮かべる学生らに、サーローさんは語りかけた。

「今度はあなたたちが語り継いでいくことを願うわ。地球を、人類を愛するのであれば答えは簡単。核兵器を廃絶すること。それが私の決断であり、生涯を捧げます」

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