令和を生きる日本人へ 石原慎太郎が遺した言葉
2022年2月1日、89歳で亡くなった作家・石原慎太郎さん。戦後75年を迎えた2020年8月、BS日テレ「深層NEWS」にリモート出演し、少年時代の戦争体験や、コロナ禍で自粛を強いられる社会はどう映っているのか、今後の日本人の持つべき精神性などについて伺いました。石原慎太郎さんが令和を生きる日本人へ遺した言葉とは。(2020年8月6日放送「深層NEWS」より抜粋)
■昭和は残酷な時代だった
右松健太キャスター
「石原さんは父の転勤に伴って北海道小樽市を経て、昭和18年、11歳になる年に神奈川県逗子市に。当時の石原少年は?」
石原氏
「その時代の年齢の少年というのは多感ですけどね。そういう点ではね、私は、戦争とそれから戦後の混乱っていう非常に多感な時代に、得がたい体験をしたと思いますよ」
「ある意味じゃ、私たちの世代というのは、忘れられたっていうけど、失われた時代、世代という感じはします。そういう点で私はね、その生き残りの1人として大事なメッセージを残していきたいと思ってますけどね」
「僕はいろいろ思い出すことあるんだけども、昭和というのは嫌な時代だったね。国民にとっては。非常に残酷な時代でしたね。戦争ばっかりしててね。私が(一橋)大学の3年生になって法学部の国立の法学部の方に移ったときに、法学部の建物のトイレの中に、先輩たちが残した落書きがありました。これは学徒動員で駆り立てられて死んでいった先輩たちが、書き残した落書きでしたけれども。非常にそれは鮮烈で、なんて書いてあったか。『俺は絶対に天皇のためには死なない』と書いてあった。それは天皇の名前で行われた戦争でね、どれだけたくさんの人間が無駄な死に方をしたか。非常に不思議な国でしたよ。狂ってて、日本はね」
■戦後の屈辱
石原氏
「私の住んでた逗子は追浜という横浜の大飛行工場のあるところの近くでしたから、噂に聞いていてね、日本で初めての4発の爆撃機の『連山』とか、非常にスピードの早い偵察機の『新司偵』とか、そういう噂に聞いてた飛行機が、逗子に引っ越したら目の当たりに見えてね、もう嬉しくてね。その事を絵に書いて北海道の友達に送ったら検閲に引っかかって怒られましたけどね」
飯塚恵子読売新聞解説委員
「戦争とともに育った少年時代だったと」
石原氏
「やっぱり戦後の屈辱。僕は痛感しましたね。私はどういうつもりだったかわからんけども、父親が東京の軍事裁判(極東国際軍事裁判)のね、切符を取ってくれたんでね。市ヶ谷の法廷に行きましたよ」
「でね、雨の日で高下駄履いていったら、階段をカタカタ2階にのぼっていったら、踊り場にMPが立っていてね、僕の方を捕まえてどやしつける。それで何を言われたのかわからないから、英語で。そしたらお兄さんがね、『履いてるゲタがうるさいから脱げ』と言っている。と。それで私が脱いだら、いきなりMPが、その脱いだゲタをバーンと足で蹴っ飛ばして払った。僕は、無くなったら困るから濡れた床を這っていってゲタを集めて合わせて、濡れた床を裸足で2階まであがって傍聴席に座りましたよ」
飯塚コメンテーター
「どう感じた? 裁判の中身はともかく」
石原氏
「それは屈辱ですよ。屈辱。少年なりにそうですよ。それこそまさに自分だって戦争で死ぬつもりでいたんだから。国家っていうのはやっぱりそれはみんな背負っていた。ある意味でその美しい人間像ではあったと思うけどね。それはやっぱり考えてみると怖い話ですよね」
■米兵に殴られた夏
右松キャスター
「GHQの占領下、石原さんが住んでいた逗子市も、アメリカ兵がやってきた光景があったと」
石原氏
「ある時ね、終戦の1年後の9月暑い日でしたけれども、学校から帰ってきて、逗子の小さな商店街を歩いていたらアメリカの若い兵隊が、アイスキャンデーをしゃぶりながら大手を振って歩いて行く」
「買い物に来ている奥さん方がね、身を潜めて軒下に身を隠している。それを見ると愉快なもんだから、若いアメリカの兵隊が肩で風きって歩いてきた。道の真ん中を。みんな日本人は歩けないんですよ」
「僕は、こしゃくだからね。彼らと同じように真ん中を歩いて行ったら、いきなりすれ違いで殴られた。彼らのしゃぶっていたアイスキャンディーで殴られた。アイスキャンディーが溶けて、砕けましたけどね」
「それがたちまち伝わってね。次の日に学校に行こうと思ったら、同じ電車に乗るおじさんたちが、『みんな大丈夫か?』て気にしてくれてね。噂では殺されたとかケガさせられたっていう話があったんだけども。それから1週間ぐらいたったら、校長室に呼び出された。校長じゃなしに、教頭とあと3人ぐらいの先生がいたけど、その先生たちが『お前なんてバカなことしたんだ』と。『そんなアメリカに突っ張って、道をあけたらいいじゃないか。突っ張らずにね。迷惑が学校にかかったらどうするんだ』っていうからね」
「僕のいた湘南中学というのは海軍兵学校の予備校みたいでね。ほとんどの人間たちが海兵に行ったんですよ。私もそのつもりで、入学試験のときに口頭試問で『君は将来何になるか?』と聞かれたら、『外交官』と。『外交官ってあんまり好ましくないから、海軍士官になりますと言え』って、言わされて入ったの。そういう学校でした」
「ですからね、僕は先生にくってかかった。『あなた1年前にね、国のために立派な士官になって死ねと言って教えたじゃないか。それが今になってね、アメリカになんでペコペコしなくちゃいけないんだ』と言ったら、そのときにたまたま、戦争から帰ってきたばかりのお坊さんの、私の担任になった立派な先生がいてね。みんなを抑えて、『みなさん、これは私に任せない』と。僕1人を抱いてね。『石原ね。お前も辛いけど俺も辛いんだ』『戦に敗れるっていうのはこういうことなんだよ。我慢しなくちゃしょうがないんだ。お互いに我慢しよう』と諭してくれた。それですっきりしましたけどね。そういう経験がずっとありましたよ」
■戦後70年談話について
右松キャスター
「政府の公式見解となる戦後70年の安倍首相談話では、過去の首相談話と同じく、日本が先の大戦をめぐる『おわび』や『侵略』などのキーワードを網羅した上で、未来志向の表現を盛り込む内容となった」
「飯塚さんは、安倍総理が発表した戦後70年談話に関する有識者会議メンバーでしたが、当時歴史認識の議論は?」
飯塚コメンテーター
「先の大戦での日本の行為を『侵略』と位置づけるかどうかについて委員の間でも見解がわかれたが、報告書では日本が満州事変以後、大陸へ『侵略』を拡大したと認定した。石原さんは、5年前の戦後70年談話をどう評価している?」
石原氏
「卑屈だね、卑屈。日本の降伏の仕方が間違ったんですよ」
「ドイツは日本と同じように最後まで戦ったが、降伏する時に3つ条件をつけた。その条件はね、ひとつは戦後の、要するにドイツ人の教育はドイツ人がする。それから、新しい国の憲法は自分たちで作る。それからどんなに少なくとも国軍は持つ。その3つは飲まれないと俺たちは死ぬまで戦う、といって、結局連合国側は飲んで、ドイツは降伏を許されたんですよ」
「彼ら(ドイツ)はその通り国軍を持った。自分たちの憲法を作った。日本人の『憲法』という憲法なんて、アメリカ人が書いたんじゃないですか。あなた方は読みなおしたことはありますか?前文なんて日本語になってない」
「助詞の使い方も5つも6つも間違いがありますよ。問題がたくさんある」
■日本の歴史を知らなすぎる
右松キャスター
「石原さんは『昭和は残酷な時代』だと。戦後から今、先人から受け継いだもので社会ができあがっていると思えない。現代社会をどう見ている?」
石原氏
「やっぱり、若い人はうつつの出来事に夢中になってて、過去を振り返ることをしないし、あまりにも日本の歴史を知らなすぎますよ」
「有色人種のなかでこれだけの近代国家をあっという間に造った歴史の事例があるかということ。トインビー(英・歴史家)なんて、日本人がやたらに好きでね、日本人の近代化の歴史は世界史なんか奇跡だと言ったじゃないですか。なにも外国人に褒められたからありがたがるわけじゃないですけど、まさに奇跡ですよ」
「有色人種のなかでこれだけの国を造って、しかも日清、日露という大きな戦いで勝ち抜いて、最後は、アメリカ、フランスも、オランダも、要するに白人の国全体を相手にして戦って。敗れはしたが、それだけの歴史の造形をした民族は他にありますか」
■新型コロナにリーダーは難しい選択を迫られている
右松キャスター
「石原さんが体験した戦争とは違う形で、いま私たちはコロナ禍によって日本社会は大きな影響を受けている最中にある。石原さんには"コロナ禍"はどう映っている?」
石原氏
「これは非常に難しい選択を強いられているね。日本人も。世界中の人間が。つまり金か命かだ。どっちが大事か」
「これは自明なことでしょ。いくら金もったって、死んだらしょうがないんだ。だけど、このバランスをどうとるか、誰もなかなかそう簡単に決められないし、今の政府の周章狼狽ぶりを見たって、結局、彼ら自身がその判断がなかなかつかない」
飯塚コメンテーター
「(リーダーたちに)アドバイスは?」
石原氏
「小池さんも大変だと思いますよ。こういうときは、政治家は自分の責任で独断しないといけないことがいっぱいあるわけね。それは、自分の決断を自分でするという、独断の意味合いは一番、政治家に重くのしかかってるんじゃないかな」
■コロナ禍は日本人の自我の弱さを浮き彫りにした
右松キャスター
「日本国民はお願いベースで自粛する行動を取った。コロナ禍が日本人の何を浮き彫りに?」
石原氏
「日本人の自我の弱さだと思うね」
右松キャスター
「同調圧力で自粛を守った国民性が見えたということ?」
石原氏
「日本の文明とか文化を創ってきた、日本人の民族的な特性ね。それはかつて明治という奇跡の時代を創った明治の人たちが、『私事(わたくしごと)』として国家のことを考えたんですよ。それは福沢諭吉という先覚者がいいこと言ったのは、『立国は公にあらず、私なり』。国のことを本気で考えることは一番大事な私事だと」
「それが希薄になってきたね。他力本願で、他人任せになって、言いなりになって。自分の運命と重ねて社会、国家を考えることを日本人はしなくなったね」
右松キャスター
「テクノロジーが社会を効率化している。無駄が省かれる分、生活の余白が失われてる。こうした時代に私たちはどんな精神性を持つべき?」
石原氏
「難しい問題ですね。自分の人生は自分でコントロールするしかないし、自分の人生を左右する出来事の選択は自分でしないといけないわけですから。日本人は欲望が肥大しすぎていて、この時代も若い者がどうしても遊びたくて、新宿や渋谷に集まる。これは、自我のコントロールができないひ弱さの象徴だと思いますよ」
■日本人の感性は日本人が育て保つ
右松キャスター
「今年戦後75年。コロナ禍に社会が覆われてる。戦争体験を持つ石原さん、今後戦後80年、90年を生きていく上で最後にメッセージを」
石原氏
「私たちのごく近いご先祖がこれだけの近代国家を唯一造った。有色人種のなかで。歴史的な奇跡なんです。そういうものの価値を私たちは歴史のなかでちゃんと捉えて、いたずらにおごる必要はないけど、そういう自負を持たなきゃだめだと。これから日本がグローバル化している世界の歴史の中で、外にむかって強いメッセージを発して、ある意味リーダーシップを持てる所以じゃないですか。やっぱり自分の国の歴史に相対的に誇りを持たない民族はだめですよ」
「それでね、ちょっと飛躍するかもしれないが、たとえばその素地になった、これもひとつの歴史の偶然かもしれないけど、徳川の統治の中の300年、あの鎖国のなかの徳川時代の、この文化的な成熟のすばらしさ。これは要するに江戸時代の成熟は、文化的にすばらしいものでね、こんなものは事例がありませんよ。だからあの頃の日本の芸術は近代化されたヨーロッパにものすごく影響を与えた。北斎もそのひとつだけどいっぱいありますよ。その体積の上に現在の日本があるのでね、江戸時代の日本人が示した感性の鋭さみたいなものを絶対に失ってはいけないし、守っていかない限り、これからグローバル化の時代に世界に飛躍していけない」
右松キャスター
「きょうは、戦争体験や令和を生きる私たちへの提言、ありがとうございました」
石原氏
「言い足りないことあったんだけどな」
右松キャスター
「では、お願いします!」
石原氏
「日本人が持っている感性っていうのは日本人が育てなければだめなんですよ。例えばね、秋に鳴く虫の声が本当に好きなのは日本人だけしかいない。西洋人にとってはただのノイズなんですよ。昔、小林秀雄さんが書いていたが、ある京都の会社の社長が社員を集めて、お月見の宴をしてた。自分の広い庭の庭園で。そこに関係ある外国の会社役員が何人か来ていた。『きょうは満月だな』ということでお酒を飲んでいた時に、だんだん空が明るくなって、山の端がだんだん明るくなってきて、ついにそこから満月が完全にのぼりきった瞬間、一座がしーんとなった。外国人はたまげちゃった。『何があったんですか』と。『月ですよ』と。こういう、月に反応する民族は日本人しかいないんでね。こういう感性は、私たちはこれから保っていかないとだめですよ」