原爆資料館でG7首脳らと対面した被爆者の女性「被爆の“リアル”を感じてほしかった」
G7広島サミットにあわせて各国の首脳が平和記念公園を訪れ、約40分間、原爆資料館を視察しました。館内の様子は非公開でしたが、そこで首脳らは、被爆者の小倉桂子さんと対面しました。
小倉さんは1937年(昭和12年)生まれの、85歳。8歳の時、爆心地から2.4キロ離れた街で被爆しました。広島で起きた悲劇を語り継ぐため、1981年「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」を設立。自らの被爆体験などを英語で世界に発信する取り組みをしています。
小倉さんは首脳らと何を話したのでしょうか。
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――被爆の話をした時、各国の首脳はどのような表情をしましたか?何か質問はされましたか?
小倉さん:
それは、なかなかお話できないところなんですけれども。
――言ってはいけない?
小倉さん:
そうですね。私が何をお話ししたかということを中心にお話しさせてください。
私がお話しさせていただいたのは、2つです。まず自分の被爆体験。それからもう一つは、佐々木禎子ちゃんの話、私の体験を彼女の体験と重ね合わせて話をさせていただく。これこそ核兵器の持つ放射能の脅威っていうのを伝えられる話だと思いましたので。
――佐々木禎子さんは平和公園にもある「原爆の子の像」のモデルになった少女ですね。
小倉さん:
はいそうです。
《佐々木禎子さん》佐々木禎子さんは1943(昭和18)年に生まれ、2歳の時に被爆しました。運動の得意な元気な少女に成長しましたが、被爆から10年後に突然白血病であると診断され入院しました。お見舞に千羽鶴を贈られたことをきっかけに、「生きたい」という願いを込めて折り鶴を作り始めます。しかし8か月の入院生活の末、家族が見守る中、亡くなりました。(原爆資料館HPより)
――小倉さんは禎子さんの母親とも親交があったんですよね。
小倉さん:
そうなんです。私は禎子ちゃんが亡くなった後、お母さんにも、おばさまにもお会いしたんですね。
「こういう少女が亡くなりました」では、本当にあったこという感じはしないから、本当の話だと感じていただきたいから、「(禎子さんのお母さんは)うちの娘は千羽鶴を折ったのに、それでも亡くなったんですよ」と(話していた)。普通の人たちが悲しい目に遭って、それが今も続いているという本当のリアルな感じをお話ししたいと思いました。
それから、「核兵器って何?」と。世界中、全員が心に「核兵器はいらない」と感じないと、本当の平和は来ないと、そういうふうに思ってるんですね。核兵器はなんだか“ちょっと大きな爆弾”、“威力のある爆弾”というふうに思っている人が、たくさんまだ世界にはいらっしゃるので、核というものは何か、放射能というものは何か、未来まで続く恐怖とか、そういうものを伝えたいと思って、それに焦点を当ててお話ししました。
私は自分がどういうふうにして被爆したかと、その現状をお話ししたんですけれども、私の話を通して、「自分はその時、広島にいた」というような感じになっていただきたいと思いました。ピカッと光って、それからどうなって、どういうふうに原爆が落ちたか、時間がたつとどうなるかということを、皆さん、私と同じように感じていただきたいと。
――何分ぐらい話しをしましたか?
小倉さん:
初めは4、5分で(話を終えよう)と思っていたんですけど、倍以上お話ししたと思いますね。お話をして手応えがあると思いました。
――小倉さんにとって今日は、どんな日になりましたか?
小倉さん:
とても印象深い日でした。一番最初に、各国の首脳が(原爆資料館に)お入りになって。うれしかったですね。「わぁ!」と思って、そして一番最初に申し上げたのは「Welcome to Hiroshima」なんです。ありがとう来てくださって、私たちはあなたを歓迎してますっていうことから始まりました。そして、きちんと私の伝えたお話を聞いてくださったと感じました。忘れられない日です。
(NNNサミット取材団)