「復帰の日」に沖縄から本土へ渡った女性 本当の意味での「復帰」とは
50年前の5月15日、沖縄から本土へと渡った1人の女性がいました。彼女が思う本当の意味での「復帰」とは。
■「復帰の日」に本土へ 手にはパスポートが…
沖縄県那覇市に住む、島袋朝子さん(70)。50年前、朝子さんは那覇港から鹿児島へ向かう船の中で本土復帰を迎えました。
本土の生活や基地などを見るために企画されたツアーに参加した、当時20歳の朝子さん。復帰のあの日を振り返って。
朝子さん
「まだ見たことのないようなところに行ける。そういう期待はとってもありましたよ」
本土へ渡ろうとした朝子さんの手には、パスポートがありました。アメリカ統治下だった沖縄では本土へ渡る際にもパスポートが必要だったのです。
朝子さん
「うーん、微妙ですよね、日本人なのにパスポートを持って渡るということですね。日本人だけど日本に行く。日本から出国するというふうな書き方がされているわけですよ」
さらに、予防接種も受けたといいます。
朝子さん
「例えば予防接種、国外に行くとき予防接種しますよね、あれも必要だったんですよ。予防接種をして確か行ったような記憶がありますね」
朝子さんの当時のパスポートには、ある特別なスタンプが押されています「日本復帰乗船記念」と書かれたスタンプ。1972年5月15日という日付と「おとひめ丸」と記されたスタンプは、本土復帰の日に鹿児島へ向かう船の中で押してもらったといいます。
当時、鹿児島への貨客船を運航していた海運会社・琉球海運を訪ねると、朝子さんのパスポートに押されたスタンプの記録が残っていました。復帰を記念するため、この日に限り押されたということです。
■米軍統治物語る「B円」いまも手元に…
朝子さんには、スタンプのほかに大切に保管しているものがあります。朝子さんの母が当時使っていたという紙幣。
朝子さん
「普段の生活はドルでの支払いであったし、ただドルになる以前も『B円』というのがあって、それを使っていた」
戦後、米軍の統治下にあった沖縄では、米軍が発行する緊急通貨として「B型軍票」いわゆる「B円」が流通していました。その後、復帰を果たすまでドルを使っていた沖縄。
朝子さん
「コインですよね、1セントとか5セント、そいういうコインを例えばお小遣いでもらったりとかお年玉でもらったりしていました」
■初めての本土で…「日本語が上手いね」
本土復帰の3年前、朝子さんは高校生のときにも本土へ渡っていました。ボランティア活動の一環で、本土の学生と交流する機会があったのです。そこで知った本土から見た沖縄。
朝子さん
「『英語使っているの?』とかそういう話は、ごく当たり前に聞かれました。『日本語が上手いね』とか。沖縄のことを本当に知らないんだなと思いました。逆にこちらとしては英語が話せないのにね」
本土の子たちからの“物珍しさ”を感じたということです。
■小さな島にいまだ残る大きな基地
50年前の復帰の日、本土に渡った朝子さん。東京の米軍横田基地を見学したことが、ふるさと沖縄の抱える基地問題について考えるきっかけになったといいます。
朝子さん
「横田基地を見たときに、真っ平らですごく広いと思ったのですね。なんてすごい広いところなんだろうと思ったら、一緒に行った人が『何言っているの?(沖縄の)嘉手納(基地)っていうのはもっと広いんだよ!』と。ああ、私は何も知らないんだって本当に思いました。」
復帰から50年経ってもなお、いまだ7割の基地が集中する沖縄。
朝子さん
「(基地の現状)それをおかしいっていうのを沖縄県民だけが感じているのかな」
朝子さんは基地問題を日本全体で考えてほしいと訴えています。そして、本土復帰50年はただの区切りでしかないと話します。
朝子さん
「みなさん50年、50年とおっしゃるけど、これはもうただの区切りでしかない。復帰のときに一番みんなが望んでいた基地を無くしたいというのが変わらずあるわけですから。基地をいつなくせるのか、そうでなければ復帰50年、また60年というふうに数えていっても変わらないのかなと思っています」