東日本大震災から14年 遺留品に残る津波の跡…鈴江キャスター取材「いわき震災伝承みらい館」へ『every.特集』

福島県いわき市の寺院(修徳院)。並べられていたのはランドセルや卒業文集など。津波で流された後、持ち主の元に戻らず保管されていた“津波遺留品”です。
いわき市では2月28日で、持ち主への返還事業が終了。お焚きあげが行われました。
地震発生時刻の午後2時46分に合わせ、黙とうが捧げられました。その後、思い出がつまった遺留品が一点一点丁寧に窯の中へ入れられていきました。
いわき市で被災した人(43)
「さみしい気持ちもあったり、区切りなのかなと思う気持ちもあったり」
「3月11日は一生忘れられない日だと思います」
2月、鈴江キャスターが訪ねたのは、その遺留品が保管されてきた、いわき震災伝承みらい館。ここには、震災当時の資料などが展示されています。
鈴江キャスター
「あの日のまま残されているんですね」
遺留品は、小さな部屋の中に集められていました。
鈴江キャスター
「だいぶ津波の跡が…砂がまだついていますね」
砂を被ったままのランドセル。針が止まった腕時計。
いわき市では、津波で流された持ち主不明のモノを保管し、返還する取り組みを進めてきました。
津波でいわき市内の自宅が全壊した遠藤さん。震災後に生まれた子どもと一緒に訪れました。
遠藤 晃太さん(32)
「あ、これだ!これです」
「知り合いの人から写真が送られてきて、同姓同名だったのでそれでとりに来ました」
見つけたのは、小学生の時にもらった柔道のトロフィー。
遠藤さん
「砂がすごいですね」
スタッフ
「そうですね。津波の中で、もまれて、こういうところも壊れて…」
息子(9)
「よく見つけられたね」
遠藤さんは、震災があった春に新社会人となり、いまは3児の父親に。
遠藤さん
「うちの一番下の子が3歳になったタイミングで、同じ柔道会に入れようと思っているので」
女性
「これ見せられますね」
遠藤さん
「そのうちですね。柔道、強くなってもらいたいですね」
震災から14年。およそ5000点の遺留品がまだ保管されていました。しかし、受け取りに来る人が年々減少し、遺留品の劣化も進んでいることなどから、返還事業の終了が決まりました。
最後の返還期間となった2月。
坂本 貞恵さん(68)
「(遺留品が)砂だらけになっている…」
鈴江キャスター
「ご実家はこの地区の近くですか」
坂本さん
「そうですね、すぐ近くの薄磯地区です」
鈴江キャスター
「ご実家は津波の被害は…」
坂本さん
「ありました。土台だけで、何も…」
着の身着のままで、家族と福島県内の避難先を転々としたといいます。
坂本さん
「もう遺留品(返還)は今月いっぱいって聞いた。もう一度探してみようかなと思って」
鈴江キャスター
「14年近くたっても探し続けていらっしゃるのは、どんなお気持ちからですか」
坂本さん
「小中学校の時のアルバムがないので…。この年になるとやっぱり、小中学校とかね、友達も随分亡くなっているので…」
鈴江キャスター
「写真を見ながら思い出したい」
坂本さん
「それはありますね」
遺留品のほとんどを占める、アルバムや写真。実物はほかの場所で保管しているため、写真は探しやすいようにデジタル化されています。坂本さんも卒業年度を頼りに探してみると…
いわき震災伝承みらい館 箱﨑 智之 副館長
「(修学旅行で)国会議事堂に行っています」
坂本さん
「行っていますね。この先生ではなかった」
箱﨑さん
「この先生ではなかった。じゃ学年違うかもしれないですね」
箱﨑さん
「あ、これ名前入っている。鈴木考さん…」
坂本さん
「あ、この人うちの兄」
箱﨑さん
「お兄さん?」
2024年、亡くなった兄の名前を、懐かしそうに眺めていました。
結局、自分の写真は見つけられませんでしたが…。
坂本さん
「やっぱり昔のああいうのね、本当によかったです。今日来てよかった」
いわき市内に住む永山さん。
スタッフ
「どうぞご確認ください」
小学校の卒業アルバムが見つかりました。
永山 祥子さん(48)
「開かないわ…」
スタッフ
「くっついちゃっていますね」
永山さん
「くっついちゃっていますね…残念」
「あ、これうちのクラスだ(自分は)これかな?すごい。意外と覚えているなと。懐かしいです」
「14年たっているので、それまでやっていただけたので。丁寧にまとめてくださっていて。大変だったろうなと思って、ありがたい」
最後の返還期間中に、42の思い出の品が持ち主の元に戻ったということです。
遺留品の返還事業をボランティアとして手伝っていた、小野陽洋さん。
小野 陽洋さん(34)
「同じく被災の経験をした身としては、一つでも返せたということはうれしいことかなと思いました」
小野さんは現在、みらい館の語り部としても活動しています。その理由は…
小野さん
「ここが当時の自宅の前になります」
鈴江キャスター
「ここですか」
地震が起きた後、小野さんは自宅の2階にとどまりました。そのときの映像が、残されています。
「あ、(防潮堤を)越える」
津波は2階まで流れ込みましたが、小野さんは奇跡的に助かりました。
小野さんは、このとき避難しなかった判断を後悔し続けています。その経験から、語り部として伝え続けることを決めたといいます。
小野さん
「たまたま生き残ったからこそ、生かされたからこそ、同じ苦しみを味わう人が出てほしくない」
返還期間の最後の日曜日。
野田貴裕さん(41)
「見られない、怖くて」
「自分だけ生き残っちゃったから」
野田貴裕さん。遺留品が集められた部屋に、入ることができずにいました。
「(家族)全員亡くなって自分だけ生き残っているのが…それもつらいけど、(遺留品)あるかなと思って来たけど見るのが怖い」
南相馬市の自宅にいた妻と小学校に上がる直前の6歳の長女、そして、3歳の二女は、いまも行方不明のままです。
「(遺留品を)探そうと思いつつ、探すのが嫌だった」
「見つからなくていい半面、見つかってほしいという両方あって」
今回が最後の返還期間と聞き、葛藤を抱えながらも手がかりがないか訪れたといいます。この日、野田さんがようやく遺留品の部屋に入ることができたのは、2時間後でした。
野田さん
「ランドセル見て、しょっていただろうな、とか…うちの子どものがあればと思いつつ、ないほうが…なくて、こっそり自分で持って、どっかで生きていれば」
家族の思い出のモノは見つかりませんでした。
「どこでいまどうしてるのかなと…ふと海を見て思います」
(3月11日『news every.』より)