「私は見殺しにしてしまった」 生き残った人が伝える後悔 【東日本大震災13年の“あれから”】
「私は、見殺しにしてしまったんです…」
福島・いわき市で大谷慶一さんは、“もう誰も同じ思いをしてほしくない”と1年前、カメラの前で、あの日のことを話してくれた。自分の命を守るために犠牲にしてしまった命―――。
一緒に逃げていたおばあさんが背中から落ちた。背負い直そうとしゃがんで振り返ると、すぐ真後ろの家が津波で壊される瞬間だった。大谷さんは1人で階段を駆け上がった。
震災から13年が経とうとする今、大谷さんは「あの瞬間は、数秒じゃない、瞬きの間だった。どうしようかなって一瞬迷っていたら今私はいません。私の命はないでしょう。一瞬の迷いもあの時は許されなかったんです」と考えている。
福島県のいわき市・薄磯地区では、8メートルを超える大津波が襲った。防潮堤を大きく乗り越えて集落全部をのみ込み、ほとんどの家屋が破壊された。約9割の家屋が全壊し、市内で最も多い122人が犠牲となった。
当時、福島県沿岸に津波が到達するのは午後3時10分とラジオからは流れてきた。大谷さんが時計を見た時、ちょうど手元の時計の針は3時10分を指していたが、町に津波がくる気配は全くなかったという。
「なんだこれ、いつもと同じだ。大騒ぎしても結局、津波は来ないよ」と考えた大谷さんは、海に向かった。
しかし、向かった先の海には、いつも眺めている海とは違う、恐ろしい光景が広がっていた。いつも渚に向かってくる波が水平線に向かっていたのだ。引き波で海の底はむきだしに。
「これはでかいもの(津波)が来るなって直感しましたよね」
大谷さんは急いで海と反対方向に走った。その途中、大谷さんは何人かの人に会ったという。「逃げろ!」と声をかけても「どこに逃げればいいの?」という人たち…。頭が真っ白になって分からなくなっているように大谷さんは感じたという。
大谷さんの妻と近所の女性2人が家の前にいた。そのうち1人は足が不自由なため、1人で歩けない状態だった。
大谷さんが慌てて家に戻ると、「おばあちゃん、どうすっぺ」という話になった。大谷さんは、すぐおばあさんを背負って、妻たちと逃げる選択をとった。向かったのは神社の石段。すぐ目の前まで走ったとき、そのおばあさんはずり落ちてしまった。
もう一度背負い直そうと、大谷さんが後ろを振り返りながら腰をおとすと「津波で家が壊される瞬間ですよね。屋根から煙が“もやもや”ってあがるのが見えて…」。“津波が来た”と思った瞬間、大谷さんは1人だけ石段に向かっていたという。とっさの判断だった。
「私は…見殺しにしてしまったんです…」
一緒に逃げた妻と女性は助かったが、背負っていたおばあさんは亡くなった。大谷さんはその時、おばあさんの目を見た。「あの時のあの目の色、片時も忘れたことはないですよ、今もです」
自分の命を守るために、犠牲にしてしまった命がある…。しばらくは、この事実から、夜も眠れずに、涙を流しながら日々を過ごしていた。大谷さんは、このおばあさんの話を誰にも明かすことができなかったという。
しかし、震災後、しばらくして、同じ悲しみを味わってほしくないとの思いから、語り部の活動を始めた。おばあさんの供養の気持ちを込めて、多くの人に自身の体験を語り継いでいる。
「自分にだけは災害は及ばないって思って生活している」
「あなたが日常生活をしているその場所、もしあなたの身に危険が迫ったら、その場所だったらどう行動したらいいのか、頭のなかでシュミレーションしてほしい」
「ひとごとだと思わず、自分ごとに」
(※2023年5月11日に福島中央テレビの「ゴジてれChu!第Ⅲ部」で放送されたものを再編集しました)
【取材した福島中央テレビ・小野紗由利アナウンサー 2024年3月に思うこと】
その後悔を無駄にしたくない。そう思い、被災者の声をまとめて伝えています。あの日から13年が経つ今だからこそ打ち明けてくれた彼らの記憶をもとに、災害時の避難の在り方について考えるきっかけにして欲しいと思います。