災害は助かることができる…語り継ぐ24歳
東日本大震災から10年。岩手・釜石市では、津波で1000人を超える死者・行方不明者が出ました。街には大量の家財道具が散乱、電柱は折れ、車やバスが流されました。あれから10年。最も被害が大きかった鵜住居地区では、被災した学校の跡地にラグビー場が、海岸には防潮堤が作られました。
かつて防災センターがあった場所には、震災の記憶を伝える施設があります。そこで、語り部として活動している川崎杏樹さん(24)に、中継で話を聞きます。
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(質問)
川崎さんが今いらっしゃる「いのちをつなぐ未来館」ですが、どのような施設なのか、教えて頂けますか。
(川崎さん)
未来館は、震災の伝承や防災学習のための施設で、釜石市の被害や住民の避難の様子などの写真を紹介しています。また、通学帽や携帯電話など、津波の被害を受けた品々が展示されています。
(質問)
震災から11日で10年、どんな思いで一日を過ごしましたか。
(川崎さん)
自分のなかではもう10年、あっという間だったなという感覚でした。私は中学校で被災したのですが、黙とうのサイレンが鳴っている時は、地震が発生している風景を思い出していました。当時、立っていられないくらい強い揺れが起きていたので、そのときの状況を思い出しながら黙とうをしていました。
(質問)
語り部として必ず伝えていることや一番大切にしていることは。
(川崎さん)
災害や震災は必ず来る。でも、助かることができるということを伝えています。そのためには防災教育が必要だと思っています。
私が中学生の時には、ちょっと変わった防災教育をしていました。たとえば、津波に見立てた車に追いかけられるという訓練です。その訓練では、自分のうしろから猛スピードで追いかけてくる車から逃げることで、津波の速さを体感したり、怖さを学びました。この訓練があったからこそ、本当に地震や津波が来た際に逃げることができたんじゃないかと思っています。
私自身や同級生もそのおかげで逃げられたと思っています。防災教育をやっていなかったら、私は助かっていなかったかもしれません。
(質問)
2011年に釜石を訪れました。その当時と比べて2019年のラグビーワールドカップの時には、道路やホテルができて、復興が進んでいるなという印象でした。中でも復興の象徴としてスタジアムができていて、とてもうれしかったです。ワールドカップ後の復興の進み具合はいかがでしょうか。
(川崎さん)
2019年のラグビーW杯の時は、海外の方も来てくれて、街もすごくにぎわっていました。W杯の後も街に来てくれた人もいて、ラグビーを通して被災地を見てくれたと実感しました。街は、家ができたり、新しい建物ができたり、見た目では復興してきているけど、少し離れると道路をまだ修復していたり、さら地だったりして、まだまだだなと。
また、コロナの影響も感じています。せっかくお店も再建したのに、コロナの状況でなかなか思うように動けないといったお店もたくさんあるような印象を受けます。
また、釜石市には若い人が少ない印象があります。私自身も大学で県外に出たのですが、「釜石のために何かしたい」という思いで、戻ってきました。やっぱり震災は伝えていかないと忘れられてしまう。自分たち若い世代が担っていかないといけないなと思います。
(質問)
若い人に戻ってきてもらうために、国や自治体からどんな支援があればいいと思いますか。
(川崎さん)
大学などで、一度地元を離れた人たちが、地元で就活がしやすい環境を整える必要があるのではないかと感じています。また、中学生や高校生のうちに、地元にはどんな企業があるのか、どういう大人がいるのかということを知っておくことが、今後、地元への帰って来やすさにつながっていくのかなと思います。
(質問)
震災から10年、今だから伝えたいことは何でしょうか。
(川崎さん)
数字の上では区切りのいい10年ですが、被災地にとっては9年も、10年も、11年もあまり差がないように感じられます。災害が起きても助かることができる、自分の命は自分で守るということを個人個人がしっかりと取り組めば、結果的には、たくさんの方々の命が助かることにつながると思います。
私は自分自身の経験として、災害が起きても助かるということを学びました。それを強く伝えることができると思います。
私はここ釜石で、引き続き発信を続けていきたいと思います。